懐かしの故郷…駅・電車 その後

信州長野の長野電鉄・屋代線(旧河東線)が、この3月いっぱいで廃線になった。
私にとっては、屋代線と言う名前は馴染めない。河東線に乗っていたからだ。何時頃から、この線名に変わったのかも知らなかった。もっとも、この線を利用していたのは、高校の時であり、今では40年も前のことだから仕方ない。
以前2009年10月、このHPで「
懐かしの故郷…駅・電車」で紹介したが、その頃は、既に、廃線になるかもしれないと話題にはなっていた。

この線の存続に関しては、地元でいろいろな策を講じてきたようだが、結局は恒常的な利用者がいなければ難しいのだろう。
私が利用していた頃は、今のように各家庭に車が無く、自分の足で歩くか、公共交通が
唯一の足という時代であった。この河東線でも、7時〜8時代は、2両か3両編成の電車が
満員で走っていた。

3月末で、終了ということを聞き、いろいろなイベントを催していたことは、知っていたが行くことは無く、40年前に乗って以来、気になってはいたが乗らず仕舞いになった。
今回、長野へ行く機会があったので、駅の様子を見てみた。
廃線前も廃線後も、無人駅になった信濃川田駅はひっそりしていた。今は、電車に替わりバスが運行を始めた。

2012 Jun.9. tama
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駅舎へ入っていくと、やっぱり!ついに終わったんだ。と言う感じだ。

駅舎の待合室は、バスの待合室になっているようで、おばさん2人が話し込んでいた。
電車を運行していた2009年当時は、無人とはいえ、時刻表やお知らせなど、貼り紙や表示物が沢山あったけれど、今は、高いところに料金表だけがぽつんと、置き去りにされて掲げられているだけだった。

待合室を貫けて、須坂方面行きホームに出てみた。

ちょっと面白いことを発見した。駅・行き先表示の看板だ。前回も書いたが…
「駅名表示板が取り付けられていたが、駅名表示板は、子どもの頃からのものが、そのまま取り付けられていた。本当に昔のがそのままだったので驚いた。
というのは、須坂方面では、この信濃川田駅と綿内駅の間に若穂駅という新駅が出来ているにもかかわらず、新駅名ではなく前の駅名のままの表示板だったのだ。
この新駅が出来たのは、私が、高校へ行く前だったから、既に40年以上は経っていることになるし、その頃、毎朝この駅を利用していたのだから気がついても良さそうなものだが…あるいは、話題にはなっていたのかもしれないけれど…。」


上記のようなことを書いたが、今回見ると、40年も変わっていなかった表示板が、新しいものになっていた。
いやぁ〜驚いた!今頃になって??どうして?って。

この信濃川田駅は、以前もあったが、廃車になった電車を解体する場所になっている。今回も、廃車になる電車が何編成か駐車しているが、ブルーシートを被せられていて、どんな車両かは解からなかったが、形状から勝手に想像してみた。

シートを被せてない車両が1編成だけあったのは、旧営団地下鉄(現東京メトロ)の 3000系ステンレスに赤い帯が入った車両だ。
須坂方面行きホームに出ると、ブルーシートを被せた車両が何編成か駐車してあった。

やはり、ホームも終わったんだ、という感じを強く受けた。線路へは降りられないようにトラロープが張られていた。

ホームから見た駅舎は、漸く役目を終えたと言う感じだ。

「しなのかわだ」と書かれた新しい駅名表示板と脇にある公衆電話ボックスだけが、妙に新しく、他は終えていくと言うのに、変なバランスだ。

3月末で運転が終わり、最後に運び込まれた車両。連休頃まではシートを被せることなく、ホームで見ることが出来たようだ。今は、ブルーシートに覆われている。

勝手に想像すると、ブルーシートで覆われた車両は、モ
ハ1500形 1502と2000系A編成 モハ2000形ではない
かと思う。どちらも、長年活躍した車両だ。

1500形は、特に毎日利用していたこともあり
懐かしく思う。

ホームから待合室に戻ってきて、懐かしげに、唯一残っていた運賃表を眺めていたら、話し込んでいたおばさんが、せっかく来たのに、電車にシートを被せてあって残念だね、と声をかけてくれた。悪さをする人がいるから、仕方ないね、とのことだった。

実家の兄の話によれば、この駅に置かれている車両を、地域で引き取って残すような話しがあるとか。いいかもしれないが、保存していくのも大変なことだと思う。
この近くでも、D51機関車を公園に展示してあるが、もう何年も手入れをしてないのではないか?と思われる状態だ。最初は、力を入れても、そのうちに手をかけなくなっていく、日本人の悪いところだ。

駅舎から出て、前のロータリーで周囲の風景を眺めた。子どもの頃の記憶だと、駅から真っ直ぐに伸びたメインストリートは、店も軒を並べて活気があふれ、他のバス会社も乗り入れていたり、タクシー会社もあってにぎやかだった。今は、閑散としている。やはり、交通の流れが変われば、その地域の活性が失われていくのだろう。

駅前から遠くを眺めると、北アルプスの唐松岳、五竜岳そして双峰の鹿島槍ヶ岳の峰々が、まだ多くの残雪を頂いて、すぐそこに見えていた。

90年と言う、長い歴史に終止符を打った屋代線だったが、今、駅前に立って、周囲を見渡せば、利用していた頃のことが、いろいろ思い出された。何時だったか、この川田駅が空襲に遭ったという話を聞いた事があった。その時は、こんなところまでアメリカ軍は来たのか、ぐらいにしか思っていなかったし、ちょっと信じられなかった。
その後、実家へ行った時に、母親がこんな本があるから読んでみろと言われて渡されたのが「悠久の平和を」という、この地域の人たちが、戦後50年にあたり、戦争中の体験や苦しみを記した記念誌だった。
この中には、夫を戦地で亡くした伯母も手記を寄せていたが、この信濃川田駅での出来事を綴った文章があった。「白昼、機銃掃射の惨劇・苦しみ死んだ17才の姉」と言うものだ。以下に引用する。

『あの日、昭和二十年八月十三日の午後、信州・菅平の空には積乱雲がまぶゆく輝き、新緑の山々からは蝉しぐれが降りしきっていた。
14才の私は三つ違いの姉、美奈子と、同僚の宮川さん(17才)の三人で、須坂発屋代行きの長野電鉄に乗っていた。東京鎌田の家を四月十五日の空襲で焼かれ、着の身着のままで、母の実家(松代)に身を寄せ、姉と私は須坂の軍需工場に通っていた。
あの日は、昼過ぎに警戒警報が出され、私たちは、作業を中止して帰る途中だった。
電車が綿内駅を出た午後一時頃、グラマン戦闘機が追撃してきた。川田駅に着くと同時に全員下車させられた。線路を、駅構内へと逃げまどう私たちの頭上を、繰り返し襲う機銃掃射。
「伏せろ!」人びとの波に押し転がされるように伏せた私たちの前後に、まるで雨のように紫色の火花が、爆音と同時に破裂した。
「しいちゃん、早く逃げて、苦しい……」
姉の声に、ふと顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、せい惨そのままの光景だった。
近くの木の幹、、枝、葉が吹き飛ばされ、地面にはうす桃色の肉片や鮮やかに不気味な血のりが飛び散り、血の海の中でもがきうめく人。泣き叫ぶ子ども。私たちのすぐ前の木のかげには、・・・・・』
この後も、綿々と綴られているが、凄惨すぎる。

今のような、平和ボケした世の中に生きている私には、全く想像できない出来事が、この静かに終わっていく信濃川田駅であったのだ。
90年と言えば、私の母親は92歳になるが、人一人の人生だ。戦前、戦中、戦後そして現在と過ぎてきて、時代時代でいろいろなことがあったのだろう。
私の河東線は、子どもの頃は、電車に乗る機会は少なかったが、須坂や松代といった隣町へ出かけるのが楽しみで、電車を待っている間、木枠の改札で遊んでいたこと、高校の時は満員電車に乗って行ったことだ。
今となっては、ただただ思い出を辿るだけだ。

やがて、電車から替わって運行している長野電鉄の須坂行きのバスが到着し、駅舎で話し込んでいたおばさんが、バスに乗り込み発車していった。

右:2009年当時撮影した看板、新駅が出来て40年もするのに変わっていなかった。左;2012年撮影、廃線になるかもしれないと決まってから?変更したのかな?

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2000系は、乗る回数は何回も無かったが、あの当時あこがれの特急列車だった。いつか乗ってみたいという思いが、いっぱい詰まった電車だった。
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