【信濃川田駅ホームから駅舎】

【河東線・綿内・須坂方面】

【河東線・松代・屋代方面】

【駅行き先表示板】 

須坂方面の次の駅表示が昔のままになっていた。信濃川田駅と綿内駅の間には若穂駅が出来て、もう40年にもなるのにそのままだった。

【長野電鉄・河東線・信濃川田駅 切符売り場窓口・小荷物受け渡し窓口・改札口があったところ】

【待合室・中央に四角く描かれている場所には冬期ストーブが置かれてのか?記憶には無い。】

【切符売り場のイメージ】

【長野電鉄・河東線・信濃川田駅 駅名表示版】

【長野電鉄・河東線・信濃川田駅 駅待合室出入り口】

【長野電鉄・河東線・信濃川田駅駅舎】

今は、コンピュータ制御があたりまえの時代になったが、たまにはこうしたタブレットを交換するようなローカル線をゆっくり旅するのもいいかもしれない。電車に乗らなくてもいい、昔懐かしい場所は誰にでもあるはずだから、そんな場所を訪れてみることもいいかもしれない。都会に住み、日々何かに追いかけられているような生活を送っている者にとって、たまにはこうした空間が必要だ。

子どもの頃、駅で電車がホームに入ってきた時に見ていると、運転手、車掌、駅長達が、変なことをしているなって思ったことがあった。
今では、その仕組みが分かってしまい、当然のことをしていると思えるが、子どもとしては変なことにしか思えなかった。


それは、電車が駅に着くと運転手が窓から大きな「
輪が付いた小さなバック」(タブレットと言う)のようなものを駅長に渡し、駅長も持っていた別の「輪が付いた小さなバック」を運転手に渡し交換をする光景だった。

また、その駅に停車しない電車は、ホームの端に、これも変な物、「
1.5mくらいの柱の上に、らせん状に順に円弧が大きくなって突端に丸いボールが付いているモノ」(タブレット受け器)に徐行運転しながら、運転手だったか車掌だったかは定かではないが、窓から身を乗り出すようにして、例のワッかをその変なモノに輪投げのように投げる。そしてスピードが落ちているので、駅長は持っていたワッカを電車へ渡す。

そんな事を見ていて、変な儀式をしているなぁって、何だろうと不思議に思っていた。
結局、この儀式は、安全運転のための通行手形の受け渡しだったのだ。

後に、このからくり?が分かった。

単線区間を走る列車では、すれ違いの出来る駅間に一つの列車しか入れないようにして、列車の正面衝突を防いでいる。これを安全に実現するため、指定された区間で1つだけ通行手形(タブレット)を発行し走行する列車が携帯して列車を安全に走行する仕組みだったんですね。

河東線、信濃川田駅という無くてはならなかった私達の足が、今存続か廃止かの岐路にあるという。
故郷の信濃川田駅の誰もいない待合室の長いすに座って、駅舎内を見回すと、あの頃のことがどんどん思い浮かんでくる。

この河東線がすごいと思ったことは、国鉄時代に上野から河東線経由で湯田中まで直通列車の急行「志賀」号が運転されていたことだ。今では、各社が相互乗り入れをするようになったが、あの頃は珍しかったのではないだろうか。

急行「志賀」号は、屋代駅まで急行「信州」などに併結されてきて、屋代からは3両編成で河東線に入線、湯田中まで乗り入れていたのだ。昭和37年から57年まで20年間もの間だ。子ども心に、どんな列車が通るのだろうと一目、その列車を見たいと思っていた。そしてある日見た、緑とオレンジ色の湘南電車は夢のようだった。

最初はクリーム色に窓枠を赤で縁どりしたディーゼルカーだったと聞いたが、その記憶は無く、1年余りで電車に替わったという。その頃の列車が、上信越道上り線の横川SA内に展示されている。

学校に通っていた頃、毎日のように乗っていた電車は、1000形、1500形という茶色い電車がほとんどだったが、その少し前、私がまだ中学生の頃、その当時驚くような電車が登場した。

それは、OSカー(Officemen&Students Car)という通勤通学輸送を目的に造られた電車だった。それまでの長野電鉄の車両には無かった、画期的な車両だったように思い出している。

この車両、当時初めての側面4扉車で、それまでの電車は木製というイメージだったが、この電車の出現で金属製の電車という感じに変わった。
電車通学するようになって、時々OSカーに乗ると、運転席と客室の仕切り壁の客室側上部に「ローレル賞」というプレートが取り付けてあったことを思い出す。それは何だか分からなかったけれど、何かすごい賞を受賞した電車なんだなぁと思って見ていた。

私が子どもの頃から乗りたいと思っても、なかなか乗れなかった電車に、長野駅と志賀高原の玄関口・温泉街の湯田中駅間を走っていた特急電車がある。その特急電車も茶色だった。

特急電車は、通常運賃の他に特急料金が必要で、子供心にこの料金は、ずいぶん高額なような気がしていたし、特に乗る必要も無かったので乗らなかったのだと思う。だから初めて乗ったのは、多分高校生になってからだったように思うが、いつだったか憶えていないし、長野から須坂間しか乗ったことがないと思う。

この特急列車は、A、B、C、Dと4種類の編成があったそうだが、既にB、C編成は引退して解体されたそうだ。その解体場所は、なんと、我が故郷の信濃川田駅の元貨物引き込み線だったという。ここに、昔は貨物倉庫のような建物があったり、材木の貯木場があってスペースがあったので、解体に適した場所なんだろう

A編成は数年前に、登場した当時のカラーリングのマルーン色(茶色)に塗り替えられて、その後数年間この色で活躍しているそうだ。この茶色は、今ではちょっと暗い感じがするけれど、当時としてはヘッドマークとそこから流れるように車体の横に白線が伸びて、特急という速いイメージがしたものだ。

また、D編成は、既に一線からは退いているらしいが、イベント等には出番がある様で、塗装は一頃のクリーム色を基調に赤い線を配したカラーリングから、やっぱりりんご色に塗り替えられたという。  

今は、跡形もなくなってしまった通学時の電車は、茶色で板張りの床は清掃後に塗る油の臭いが染み込んでいた電車だった。でも、発車から加速して行く時の音、グウォ〜ン グウォ〜ン ガタンゴトン ガタンゴトン…。2両だったか3両編成の電車が、あの当時満員だったなんて、今は昔の夢の様な光景だ。
あの頃の茶色い電車も、その後長野電鉄色というか、りんご色という赤とクリーム色のツートンカラーに塗られてきれいになって走っていたようだ。写真のモハ1500形 1502の電車が、当時通学時に乗っていた電車のようだ。

通学時は、信濃川田駅で乗車し、須坂駅で乗り換えて長野行きに乗って本郷駅で下車、どのくらい時間がかかったのか今は思い出せない。でも、ゆったりした時間が流ていたことは確かだ。

最近は、長野で電車に乗る機会はほとんど無いが、以前東京で乗ったことがある電車に踏み切りで出遇うことがある。
東急東横線で乗ったことがある8500系車両や営団地下鉄(現:東京地下鉄)の日比谷線で乗ったことがある3000系電車がそれだ。最近、一番新しいところでは、小田急線のロマンスカーだった10000形車両が「ゆけむり」という愛称で長野駅−湯田中駅間で運転されていると聞いたが、まだ信濃路で走っているところは見てない。

プラットホームに出て、線路や向い側のプラットホームを見ると、そこは少し改良されたようだったが、駅舎などはそのままなので、今にも駅員が駅舎の引き戸を開けてプラットホームに出てきそうな感じがした。そして、あの朝夕の賑わい、通学通勤時間帯の列車は2〜3両編成だったと思うがぎゅうぎゅう詰めだったことを思い出した

入口の反対側はプラットホームに入る改札口があったが、今は取り除かれて素通りできるようになっていた。
今では、ほとんどの駅は自動改札になってしまい、今は、全くといっていいほど見られなくなってしまった木枠の改札口だった。
木枠で作られた改札口は、10cm角の太い角柱を組み合わせた檻のような形で、上から平面的に見ると凸字形に出来ていて、凸の出っ張り部分が通路になっていて扉を開閉する。改札時間になるとそれを凸部の扉を開き、180度回すと切符切りの駅員が入れるスペースになる。そして切符切りが始まったのだ。

子供の頃は電車を待っている間に、木枠改札口のに上ったり、扉を開けて、それに乗って回転させるようにしながら遊んで、駅員に叱られたような記憶がある。

改札口もなくなっていたので、プラットホームにすぐ出られた。
駅舎からホームに庇状に出ている軒を支えている柱に、駅名表示板が取り付けられていたが、駅名表示板は、子どもの頃からのものが、そのまま取り付けられていた。本当に昔のがそのままだったので驚いた。

というのは、須坂方面では、この信濃川田駅と綿内駅の間に若穂駅という新駅が出来ているにもかかわらず、新駅名ではなく前の駅名のままの表示板だったのだ。

この新駅が出来たのは、私が、高校へ行く前だったから、既に40年以上は経っていることになるし、その頃、毎朝この駅を利用していたのだから気がついても良さそうなものだが…あるいは、話題にはなっていたのかもしれないけれど…。

中へ入って見る。建付けが悪かった入口の引き戸も、昔のままのようだ。少しは修繕をしたようだが…。
駅舎へ入り、右手を見ると待合室作り付けの長いすは、まったく昔のままだった。中央付近に四角に線が描かれているが、これは冬季間ストーブが置かれた場所なのだろうが、ストーブが置かれてあった記憶は無い。
入って左手にあった切符売り場窓口は、今は板でふさがれていたが、当時はここに30、40cm四方の小さなガラス窓があり、上下にスライドするようになっていて、切符を売る時は、窓を少し上にスライドしてその開いた間から料金を渡し、切符を受け取ったものだ。この小窓には防犯の為なのか横棒が何本か渡されていて、駅員の顔が良く見えなかったような記憶がある。

その並びには小荷物の受け渡しの窓口があったように思うが、そこもふさがれていた。当時は、今のように宅配便がなかったので、我が家でも、東京の叔父や叔母にりんごなど送る場合、ここへ持ってきてチッキで送ったような記憶がある。
長野電鉄の電車は、通学していた頃の茶色の車両を懐かしく思い出すが、今は、その電車を見ることができなくなり、それよりも、東京に出てきてからこちらで乗ったことがあった車両が、長野で走っていて、長野へ行く度にどこかの踏み切りで出遇う。その懐かしさがあり、今も昔も気になる鉄道だ。

その最寄り駅だった「信濃川田駅」は、今は無人駅になり、乗降客も電車の本数も減っているようで、行って見た日中は、人っ子一人いない駅になっていた。
屋根に掛けられた駅名表示板は、昔のまま色あせてしまって、遠目には何と書いてあるか判別しにくいくらいになっていて、こんな風なので、利用者も少ないのだろうということを窺わせる。

長野電鉄は、長野市を中心に長野県北部地域でバス路線と、電車路線を持つ中規模地方私鉄だ。
私の実家の近くにある保科温泉へも、JR長野駅から長野電鉄の定期バス保科温泉行きが運行されている。

大正時代に前身の河東鉄道が設立され、我が故郷の地、若穂、松代、須坂や信州中野といった千曲川東岸地域(河東地区と呼ばれた)の屋代−須坂間を結ぶ鉄道が開通した。その後、須坂−信州中野間が開通し、更にに木島まで開通した。これが河東線だ。

河東鉄道とは別に、須坂−長野間に鉄道を施設する長野電気鉄道も大正に設立され、大正末期には須坂駅−長野市権堂駅間が開通した。その後、河東鉄道と長野電気鉄道が合併し、長野電鉄となった。

昭和初期には、志賀高原の玄関口の湯田中温泉に至る山ノ内線が開通し、さらにその翌年には国鉄長野駅に乗り入れるため権堂駅−長野駅間が開通した。その後一部区間が複線化されたり、昭和56年には長野駅−善光寺下駅間が地下化されるなど発展してきた。しかし、昨今の社会現象の変化により、平成14年には信州中野駅−木島駅間の路線が廃止され、開業以来初めての廃止区間となった。

河東線(現:屋代線)の存続が危ぶまれている、という話しを聞いたのは、今回長野の実家に寄ったときに初めて耳にした。それまでは全く知らずにいたのだが、それ以前のある日突然、当時の最寄り駅だった信濃川田駅のことが頭に浮かんできて、駅舎の様子が鮮明に思い出された。そして次に実家へ行ったら駅を見てみたいと思っていたのだが、意外に早く、今回この機会が実現した。

懐かしの故郷…駅・電車

今、存続か廃止かの危機に追い込まれている鉄道は、日本各地に沢山あるようだが、私が小さい時から乗って、高校の時は通学に利用していた長野電鉄の河東線(現:屋代線)の存続が危ぶまれているそうだ。

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2009 Oct..31 tama

【当時の木枠で作られた改札のイメージ】

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