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2023 10 January. tama
12月の出来事 2人の病人

私たち家族には2人の病人がいる(いた)。

1人は妻の母親、義母T92歳。
義母Tは9月に行った義父の17回忌の法事の時に焼香を済ませ、後ずさりした途端転倒した。その日は私たちと一緒に帰宅したが、痛みが取れなく翌日になっても痛みが取れず、発熱があったので、妻の従姉妹の娘が医者なので、聞いてみると想像はしていたが大腿骨骨折が疑われるとのことだった。
その時点では動かすことも出来なかったので、救急車を呼び病院を探してもらったがコロナ禍、なかなか搬送先が見つからず漸く搬送先の病院が決まり、区外の板橋区のIT病院へ搬送、既に20時を過ぎていた。
IT病院ではコロナの検査を行い、その後大腿骨頸部骨折と診断された。入院手続きを済ませ帰宅した。
入院翌日から各種の検査が行われ、手術日は9月15日と決まった。
手術の翌日からは、もう立ち上がる練習が始り、スマホを持って行っていたのでその度にいろいろ状況を連絡してきて元気に回復していった。
医師の話では、2週間程度ここでリハビリをしながら過ごし、その後はリハビリ専門の病院に転院して1ヶ月もすれば普通の生活に戻れるとの事だった。

そして、9月27日IT病院を退院し、リハビリ専門のNK病院へ転院した。
NK病院は、我が家から10分ほどの所にあるので、何かと便利だろうと決めたが、やっぱりコロナ禍、荷物の受け渡しなどは良いが面会などは出来ない。
退院して元の一人暮らしが出来るようにを目標にリハビリが始った。途中で数回面会の代わりにLINEで画像面談進捗状況を見ながらのリハビリが進められた。
ほぼ1ヶ月になろうとする時、一人生活をするには、家内外の環境を整える。例えば手すりや玄関先をコンクリートで平らにするなど必要な装備をするために、本人、病院の理学療法士、看護師、練馬区の訪問支援員および福祉用具専門相談員などが家を訪れた。
事前に、室内に置かれている家具類などを書き込んだ家屋の平面図を作っておいたのを参考に、本人が室内を歩き、どこに何を装備するか確認した。
その時点では、ずいぶん回復して来ていたので、そろそろ退院した方が良いかと思い、何時退院になりそうか担当医に確認したら、あと1ヶ月くらいとのことだった。
その後、時々スマホでの連絡があるのだが、前と違って病院に居るのか家に居るのか混乱しているときが見られるようになって、ひょっとしてボケが始ってしまったかと思われた。なので、早めに退院させたいと申し出たが、もう少ししっかりとしてからと延ばされた。
そんな状況がしばらく続き、熱が出たり、風邪の症状が出たりしたが、漸く12月2日に退院と決まった。
退院の日が決まったので、受け入れ準備やら、義母Tの妹が入院中だったので、退院前に顔を見に行こうとしていた。
11月30日、私たちは義母Tの妹の見舞いに長野へ向かっていた途中、NK病院から呼び出しがあり、間質性肺炎の疑いが有り専門業院で診てもらう必要があるとのことで、戻って来て欲しいとのこと。午前9時頃連絡があり、途中から引き返しながら転院先の病院が決まったか何度も確認するが、結局決まったのは午後2時過ぎ。救急車で転院先に向かうので、家族も向かってと連絡があり、転院先のTK病院へ向かった。

11月30日午後3時TK病院へ着いたが義母Tとは会うことが出来ず、救急外来で各種の検査をしていた。その間に入院手続きをして病室が決まり、医師の説明があったのは夕方6時過ぎだった。
説明によれば、間質性肺炎よりも心不全の可能性が高いとのことだった。いずれにしても肺と心臓に関する病気なので92歳という年齢を考えると微妙だという。治療方針の中で、高齢なのでもしもの時は、過度な延命措置はしないことで合意した。
その後、週に1回病状説明があり、肺に見える影が拡がったり小さくなったり、胸水は最初かなり溜まっていたが少しづつ減り最近では問題ない状況になった。
ただ、最近でも肺の影が拡がったり小さくなったりしているので、医師が言うにはステロイドを使うタイミングが難しいとのことだったが、年末から少しずつ投与を始めた。1月初旬現在入院中である。

2人目は、義母の妹の叔母N88歳。
叔母Nは、高校で理科の実験助手をしていた。一方では琴の先生をしていて演奏会や弟子に教えていた。職業柄、何にでも興味を持ち、何かをするなら楽しく面白がって遣るという前向きな考えの持ち主だった。趣味は山登りやスキーをしていた。健康でこの歳まで歯は全部有り、硬い柿をシャキシャキかじるのが大好きだった。そんな元気な叔母Nだった。

そんな叔母Nが、異変を感じたのは2021年春だった。知人から顔色や白眼が少し黄色くない?そして尿の色が濃くなり、近くの医院へ行くと大きな病院で診てもらった方が良いと進められ、NC病院を受診、入院となった
そこでは血液検査、画像診断等を行い、その結果を3月19日の午後説明するとのことで呼び出された。
やはりコロナ禍、特に関東地方では猛威を振るっていた頃なので、叔母Nに会えると思って行った長野のNC病院だったが、面会は出来ず、更なる検査を午後するというので待つこと午後8時。
担当医が面談室に来て、血液検査の結果や画像を見ながら説明を始めた。その時点での現象は、胆嚢・肝臓から十二指腸へ繋がる胆管が詰まり胆汁が出ない状態になっていたとの説明。その胆管の詰まりを解消するために、細いパイプを内視鏡を使って十二指腸から挿入して、胆汁は正常に出るようになったが、胆管を押して詰まらせて居る原因は、幾つか考えられるが、と・・・胆管ガン、膵臓ガンなどと・・・生検などしなければ、はっきりしたことは・・・消化器内科としてはここまでです。とのことだった。

図解と画像でその様子はよく分った。
左:内蔵図
上:直径3mmのパイプを挿入した写真
右上:胆管が詰まった状態
右下:内視鏡を使いパイプを胆管に挿入後

入院後、病理検査など各種の検査を経て膵臓ガンであることが3月22日判明し、1ヶ月後の4月26日手術が行われた。午前9時から始まり終了したのは午後4時過ぎ、ガンは綺麗に切除出来たとのこと。沢山の管につながれてICUに入り術後経過を見ることになった。話しによれば翌日から歩行練習も始めるとのことだった。
4月28日、順調に回復しているのでICUから一般病室に移ると連絡が来た。その後5月11日には退院した。退院後の食事やドレーン管理は、面倒を見てもらうYMさんが病院で説明を受けてもらい実施していただけることになった。

叔母Nは、独身のため近くに家族が居ないので教会の友達のYMさんに面倒を見てもらっていた。
叔母Nは、若い頃は仏教に興味を持ち親鸞をずいぶん研究していた。その後、琴の先生がクリスチャンだったことがあり、キリスト教を信じるようになった。そしてキリスト教についても聖書やそれに関する書物を読み、ずいぶん研究していた。日曜日の礼拝には必ず出席するなど熱心だった。

退院後は、順調に回復して秋頃には普通の生活に戻っていた。
年が明けて、2022年春に会った時は元気で、手術から1年だと喜んでいた。その後、8月になって孫と山登りに行って会ったときは元気だったが、時々腰が痛いときがあると言っていた。ひょっとして?と思ったが、本人は歳だしね、と・・・思い起こせば、これが再発の兆候ではなかったかと・・・。

2022年10月7日病院へ診察に行った。体力が落ちてきたようだが気力は元気いっぱいの様子。この日の検査では、腫瘍マーカーが少し下がっていたとのこと。次回の検査は1ヶ月後になっていたが、少しずつ体調が悪くなり始めた。薬を飲んでもすぐに下してしまい、身体は衰弱し始めた。11月中旬くらいには自宅療養が難しくなり、かねてから容態が悪化してきたら場合は、過度な延命措置はしないで緩和ケアを望んでいたので、緩和ケア専門の病院に入院した。その時点で、医師から年内いっぱいでしょうと言われた。
入院後は、安心したのか元気を取り戻し、医師の許可を受けて毎週日曜日の礼拝には教会へ通った。
私たちは義母Tの事もあり、叔母Nの事はずっとYMさんに任せっぱなしになっていた。元気なうちに顔を見に行かないと、とは思っていたがなかなか良いタイミングがなかった。
そんな中、11月も末になって、本人から電話があり「そっちはお姉さん
義母Tのこと)が入院している間に会いに来て、退院すると時間が取れないから」と。その頃ちょうど義母Tの退院の日が決まったときで、それならば今しかないと、11月30日長野へと向かった。
長野もコロナの感染者が増えていた時期だったので、面会には事前申請しワクチン接種、体温、体調などで病院の許可が必要で、OKが出た時だった。

高速道路を順調に走って、一休みしようとパーキングエリアに立ち寄ると、そのタイミングで義母Tが入院している病院の医師から電話があり、「発熱で状態が悪く、間質性肺炎の可能性が高いので、専門医に診せる必要があり、今病院を探しているので来てください」とのこと。
長野で待っている叔母NとYMさんに事情を話し、今日は行けなくなったと連絡し、引き返した。

義母Tは別の病院へ転院し、こちらもコロナで病院にお任せなので、次の長野行きを予定して12月14日に出かけた。
昼前に長野に着くと、何と言うタイミングなんだろう、叔母Nが入院している病院でコロナが発生し、叔母Nを含む数人の患者が陽性反応で、当分の間面会は出来ないという。前日に叔母Nは、ずいぶん咳き込み苦しそうだったのでYMさんが背中をさすってくれたそうで、YMさんも濃厚接触者で自宅待機状態になった。
せっかく長野に着いたのに、またしても会うことが出来ず帰ることになった。
その時、叔母Nはせっかく来たのだから、通っている教会の牧師に会っていってくれと言う。既に死の宣告を受けていて、今後のことは牧師とYMさんに任せてあるからと。そのことは前々から聞いていたが、長野を訪れてもコロナ禍で両人に会う機会が無かった。生きているうちに牧師とその話を確認して欲しいと、いつになく懇願するし、これからのこともあったので教会に寄って話して帰ってきた。
その後12月21日にYMさんから、叔母Nの体力は落ちているが、急にという事はなさそうだと、面会の解除は12月27日頃になると連絡が来た。その頃来られるようだったら来て欲しいと。
ところが、翌日12月22日、午後YMさんからの電話で、急に痛みが出てきて痛み止めをしているとのこと。LINEの画像通話で表情を見せてもらい、こちらからも声がけをしたが、痛み止めの薬が効いていたのか、目を閉じたままで聞こえてはいる様でわずかに反応を示していた。
ガンと言うと末期ではずいぶん痛みが激しいという話しを聞いていたが、今まで痛いと言う言葉がなかったので、やっぱり来たのかと思ったが、痛みを訴えたのはその日だけで、翌日は目を閉じたまま穏やかに過ごした。

12月24日、叔母Nの様子はどうかとYMさんに電話すると、「今、病院へきました。呼吸が浅く、脈も測れなくなってきました。今晩中に昇天する可能性が高くなってきました。」とのことだった。
そして翌朝YMさんから連絡があり、午前3時半頃に昇天したと。まだ、医師が来ていないので、コロナ対応になりその日のうちに火葬されるのか、普通の火葬になるかは分らないとのことだった。その後YMさんからの連絡によれば、コロナ感染から10日過ぎているので、今回の死亡原因はガンによる死亡となり、普通の火葬で行うこととなった。
その日の昼頃に叔母Nの遺体は家に戻り、琴の教え子達が集まって見守ってくれていた。病との戦いだったので、痩せてはしまったが穏やかで微笑むような顔は、人生を悔いなく全うした叔母Nそのものだった。
やはり敬虔なクリスチャンだったことが、クリスマスに神のもとへ旅立つことになったのだろう。12月28日教会葬が執り行われた。葬儀ではいくつかの賛美歌が歌われたが、その選択は生前に叔母自身が済ませてあり希望通り、集った人達で歌われた。
山登りが好きだった叔母Nが最初に選んだ賛美歌は、賛美歌404番 「山路こえて」だった。一緒に歌ってみて叔母らしい選択だったと感じる歌だった。

私たち誰しもが、元気で過ごしピンコロリンと逝きたいと思っているだろうが、人生はなかなかそう上手くいかない。
高齢を迎え、誰でもどこかここか身体の不具合が出てくるだろう。
そんな時、自分ではどんな風に対応していくのだろう?いろいろ考えても、自分が動けなくなってしまえば周囲の人の手を借りるしかない。それには、日頃から自分の希望や自分が出来る事は準備をしておき、それを周囲に伝えておく必要がある。

叔母Nは、独り身であったことやガンの再発で余命宣告をされた事もあっただろうが、病気になる前からも、動けなくなったらああして欲しい、こうして欲しいと私たちに言っていた。また、余命宣告をされてからは、更に時間の制約が出来たことで出来ることを明確にして、私たちや教会の人達にも希望を伝えてあったので、いろいろなことが希望通りに出来て旅立った。葬儀もその一つだった、私に出来るかどうか分らないが、良い手本になった。

    1990年10月の義母と叔母

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