短い秋
どうも今年の天候不順は、今になっても治まらない。
9月は陽を見る日が少なく、10月も前半は9月同様日照時間が少なかった。11月に入ったら例年だと晴れの日が多くなるのだが、今年は違う。晴れるという天気予報でも、雲が取れず結局その日は曇りだったり、雨になったりだ。いつまで続くのか、この天気。

気が付けば、もう冬? 立冬は過ぎ、小雪へと季節は進んでいる。今まで四季がはっきりしていたが、最近は春夏秋冬が崩れて短春長夏短秋冬といった感じになってきた。
そんな、ボヤキの天候だが、短い秋が遣って来た。
久しぶりに近所を歩き公園へ行ってみると、街路樹はいい具合に黄葉・紅葉していて、天候不順で色づきが良くないと思っていたので、これは儲けものっていうことで、黄葉・紅葉を楽しんだ。

いつも走っている道路脇の遊歩道は、黄色く染まった空間に黒い幹が、陽射しに良いコントラストを描いていた。歩道を歩けば枯葉がカサコソ、石畳で普段は硬い感触の足元は、今は心地良いフワフワ感だ。

遊歩道と道路を挟む土手には、長い穂のススキが周囲の赤や黄色とは違う色で生えている。よく見ると、ススキの茎は、まだ青々している。夏のうちは青々して葉っぱが主役で、穂が出るころは枯れ色になるかと思っていたのだが、それはもっと後のことのようだ。
時折往来する車の起こす風に揺られ、銀色の穂がキラキラ キラキラ。

青空を背景に、色づいた葉っぱを陽射しに透かして見れば、葉脈まで見える。子供の頃、太陽に手のひらをかざすと、赤く血管が透けて見えたような感じだ。

この短い秋に、懐かしの旅をしてきた。と言っても私ではなく、ハワイに住む従妹が、予てから田舎の墓参りをしたいと言っていて、漸く来日したのでお供をしてきた。
従妹は、18歳まで日本で育ったが、その時点で国籍を日本にするかアメリカにするかの選択でアメリカにして、ハワイに住んでいる。その間に何回かは来日したり、妻と娘は何回かハワイ旅行で行っていたので会っていたが、私が会うのは結婚式をハワイで挙げて、その時に世話になって以来だ。

その間、従妹は結婚し二人の子育ても終わり、息子の就職前の旅行を兼ねて訪れた。
懐かしの旅というのは、かつて幼少の頃、従妹は毎年夏の間、長野の私の実家で私たちと一緒に過ごしていた。そして、冬になると私たち兄弟は、祖母とともに東京の叔母のところへ行っていた。
その頃に世話になった祖母や叔母、私の父母などの肉親が亡くなって、その墓参りをしたいと言っていたのが、実現したのだ。

2週間の予定で来日、その内の2日間を懐かしの長野の旅にあてた。
時々電話で話をしていたので、40年もの歳月が流れたとは思えなかったが、いざ会ってみると齢をとったなぁという感じだ。

あいにくの雨模様。昼前に関越道に入り、一路長野へ向かうが特に何を話すでもなく、晴れていれば左手に富士山が見えるんだ、正面には赤城山など話しながら、群馬長野の県境のトンネルに入ると、幼いころに東京と長野を汽車で行き来した頃の話になった。

もう、五十数年も前になるので、定かな記憶ではないが、SLに引っ張られた客車に乗って上野と長野の間、何時間かかったのだろう。
碓氷峠のトンネルは何本もあり、窓を閉めても、SLの煙はどうしても社内に入ってきてしまい煙くて、トンネルを抜ける度に窓を開けたことを覚えている。

また、幾つかの急こう配の碓井トンネルの途中にあった熊ノ平では一休みして、また軽井沢へ向かって発車していったことを断片的に覚えている。
従妹も『トンネルの途中に熊ノ平っていう駅があったよね』なんて、断片的に思い出していた。
トンネルを抜けた佐久は、晴れた青空が広がり、久しぶりに見た黄葉を懐かし気に見ていた。
2016  Nov.28  tama
back to Nature Info
佐久から長野までは1時間。従妹の息子は、浅間山の雪を見て、あれが雪!と本物の雪景色に感激していた。

長野が近づくにつれて周囲の山々を見たり、高速道路の道案内を見るにつけ、何かを思い出している様子の従妹。
「上田・菅平」の表示を見て、『田舎は、菅平のすぐ近くだったよね』と言った。
確かに、実家のある地域は、長野市内で菅平に一番近く、県道を30分も上れば菅平だ。

上信越道の幾つかのトンネルの最後を抜け出ると善光寺平が広がる。練馬から約3時間で、田舎のお寺に到着した。

従妹は、3歳くらいから夏休みには田舎に来ていたので、このお寺もお盆には何回か来ているはずだが、そのあたりの記憶はあまり無いようだ。でも、この後、実家まで行く間に、『小学校から歩いたよね、ずいぶん遠かった』なんて言ったので、やっぱりお盆にお墓参りをして、歩いたことを思い出していたようだ。
この墓には、従妹の祖父母、叔母、私の両親が入っている。そんな世話になった人たちの霊に長い間手を合わせて、漸くお参りを果たせた。

墓参りが終わり、実家へと向かった。この辺りに来ると、子供の頃、外を走り回っていた従妹なので、景色は記憶の中にかなりあるようで、車で走っていたが『この道路からすぐに川に降りられたよね』と言う。

その通りで、昔は道路と川はほとんど高低差が無く、道路脇を流れていて、夏の学校帰りなど、川に入って遊びながら帰った。
ところが昭和30年代に台風で洪水が道路や田んぼを流し、その後護岸工事が行われ、遊べない川になった。

実家の家が見え始めた頃、『○○ちゃん、○○ちゃんはどうしてる?』と子供の頃一緒に遊んだ近所の女の子の名前をあげた。
みんな嫁に行ったよと言うと、『○○ちゃんは、悪い時があったって聞いたから大丈夫かね?』なんて、懐かし気に言っていた。

実家では、従妹が知っている人は私の兄だけになっていたが、義姉も従妹のことは話で聞いているので気持ちよく出迎えてくれた。

まず実家の仏壇にお参りをして、夕食をしながら昔話、兄が従妹に会うのも五十数年ぶりの昔懐かしい話となった。

私の娘とハワイに遊びに行った姪が、子供たちを連れて遣って来て、従妹と息子に再会しにぎやかになった。

昔話をしていると、古いセピア色をした写真を兄が持ってきて、そのころの話になった。

兄たちとジープの写真。
昭和20年代後半のことで、あの時代誰が乗ってきたのだろうか、という話しで、きっと従妹の父親が乗ってきたのだろう?と・・・

子供の頃、古い写真集の中に従妹の父親の写真を見た覚えはあるが、その写真は今回見当たらなかった。

従妹と私が写った写真。
3歳か4歳頃だったのだろう、あの頃実家では、葉タバコを栽培していて、夏の陽射しに吊るし干しをしていた。

葉タバコの吊るした列の間を走り回ったり、陰に隠れて探しっこをした記憶がある。
何日も干していると、葉タバコはカラカラに乾燥する。
その中を走り回るのだから葉タバコが千切れてしまい、祖母や母が怒るのだが、子供は怒られた時は止めるが、一時すれば、また同じことをして怒られていた。
従妹は、『そうだったかしら?』記憶にないようだ。

もう1枚の写真は、叔母の結婚式の時だったと思う。
あの頃は、結婚式は自宅で行っていたので、魚屋さんが出張してきてお膳を作ってくれた。
その魚屋さんのオート三輪車をバックに、従妹・従弟たちが並んで写っている。その中の紅一点が従妹だ。
この結婚式のお膳の列の母親の席に座った従妹は、おちょこの日本酒を飲んで『ああ おいしい!』と言って、大人たちを笑わせていた。
そんな話をしたが、従妹は『ぜんぜん覚えてないわ』と言う。まあそうだろうが、私は何故かその場面を鮮明に覚えている。

昔懐かしい話から今に至るまで、色々な話で盛り上がった。
私の父は、9人兄妹の長男で従妹の母親は、3番目か4番目の妹だ。この9人兄妹も半数以上は他界し、残るは3人になった。
この兄妹のほとんどが東京へ出たが、一人だけ長野市内へ嫁いだ叔母が居る。上の写真はこの叔母の結婚式の時だ。

この叔母と従妹の母親は仲が良く、従妹の母親がハワイへ移り住んでからはハワイへ遊びに行ったりしていたこともあり、せっかく長野に来たのだから、その叔母にも会っていきたいと電話をし、翌日会うことになった。

翌日、五十数年ぶりに訪れた田舎に別れを告げ、叔母の家に向かった。
叔母は八十半ばだが元気で、大きな農家へ嫁ぎ、桃を作っている。その日も私たちが行くというので野菜を採って来て持たせてくれた。
久しぶりに会った叔母と従妹。ここでも昔話から、今までの話を色々と思い出すまま話していた。

そんな中で、叔母が妹とそりで遊んでいた冬の日に、田舎の実家へ行く途中の橋から落ちたという話しを、従妹は母親から聞いていたようで話した。

今回来日した目的の墓参りが終わり、懐かしの幼少時代を過ごした地を後に一路東京へ戻った。

その後、日本各地を訪れる旅をした。北海道から九州まで周り、久しぶりの日本に触れて2週間の旅を終えて帰国した。
帰国した翌日は、11月としては珍しい積雪の雪が降り、短い秋は終わった。

HOME
inserted by FC2 system