大泉公園の由来
大泉公園の由来という石碑を公園内に見つけた。
これを読んでみると、この大泉学園の開発の様子がうかがえる。以下石碑の文面だ。

「古は此の地を広沢の原と呼び、明治二十四年大泉村となり誰云うことなく長久保やまと云う。公園附近八町歩余は妙福寺の御朱印地故に御朱印と呼びたり。大正の世、村長見留勝氏は古河市兵衛氏と親友にして屡々此の山林に狩猟を行い中央の情勢を把握す。会々箱根土地会社々長 堤康次郎氏の開発構想に共鳴し大正十三年箱根強羅の温泉に地主たちを招待させ大泉学園都市計画の賛同に至らしむ。

 駅北口より二粁の新道を拓き其北側に五十万坪の区画工事に着手す。駅名を大泉学園駅と改め、一橋大学誘致の運動を展開しつつ同十五年工事完了、当時十三才の水谷八重子を始め芸人多数来場し花火の音高らかに祝典と宣伝行事に村は未曽有の祭典に沸けり。折りしも電灯の導入と土地資金の流通に依り文化の向上、村民意識の改良大なり。昭和9年当町会長鈴木乙免氏は風致協会を作り協会は妙福寺の山林一町二反を野遊地に、東京市農会は三町七反を市民農園に夫々借地して作る。市は多額の費用を投じて野遊地に万般の施設をなす。秋季には甘藷堀り、運動会等市民多数が来訪し東京の一名所となる。

 敗戦により農地は農地解放され幻に消ゆ。昭和四十六年加藤惣一郎は加藤源蔵氏と計り公園買上げの陳情書を作り運動を現緑町会に一任す。怱陳情は採択され都は全域改修して同四十九年大泉公園と改まる。

 今尚野趣漫々豊にして武蔵野の面影を止む、四十年の住民の熱意と奉仕により作られた栄光の公園に緑永に豊かにして園林遊楽良くまちの文化の中核をなし豊かな心のふれ合いの広場たり。

 思うに半世紀を経て今日都市美の華を咲かせた町づくりは全く見留村長の先見愛郷の賜にしてもし此の町づくり無くば後日予科士官学校用地となりしは云うを俟たず。しかるに移り行く時の流れ、流転して止まぬ世は偉大な指導者の賢明な功績を忘れ去りたり。昔を知る桜花年々相似たり、松か枝不断の経を誦するも語らず」

生産緑地

大泉学園町を歩いていると、学園通りの建物がなくなったと思うと、いきなり黒い土肌が見えたり、野菜畑が見えたり、住宅街の中でもポツンと野菜を作っている畑がみえる。
田舎〜って言う感じだ。良いことは、畑の脇に直売所があったりすることで、新鮮野菜が手に入ることだ。

生産緑地って何だろう?と練馬区のホームページを見てみると「農地等が持っている緑地機能による公害や災害の防止、都市環境の保全などに役立つ農地等」を言うらしい。

そう言われれば、この辺りにある農地にキャベツやブロッコリーが青々した光景が見られる時季は、何かホッとする気分にもなれるし、これで空気も清浄されているかと思うとありがたいものだ。
一方で、地震等の災害時には一時的な避難場所にもなるなど、いろいろな役割をもっている。

その他、いろいろ

またまた変なバス停
大泉学園通りのバス停の名前には、よく分からないものがある。日本中のバス停にもそんな類はいっぱいあるのだろうが・・・
見た目は小洒落てないのにバス停の名前だけは「学園通り補助二三〇号線」などとやたらカッコイイ??。実はこれが大泉学園通り(都道)の正式名称なんだそうだ。

このバス停は、通常の路線バスのバス停ではなく、練馬区が西武バスに委託して、運行している「みどりバス」というコミュニティバスのバス停なのだ。



大江戸線
この辺りの公共交通はバスのみで、現状では陸の孤島的??なままの大泉学園町および新座市は、地下鉄大江戸線の延伸が悲願であり、街のあちこちに「大江戸線の延伸を早期に実現させよう!」という看板が立っている。

現在大江戸線は光が丘止まりになっているが、将来的には大泉学園町を経由して東所沢駅まで伸ばす計画があるらしい。どこまで本気なのかは分からないが、大泉学園までは来そうな雰囲気が出てきた。

光が丘から大泉町まで、光が丘のメインストリートを延長して4車線道路ができたので、
ホンマかいな??という感じだが、都の財政も余裕がないせいか未だ工事は行われて
いない。いつまでもバスが生活の足である。

でもでも、東京オリンピックが決まり、射撃という種目があるとすれば、その会場は前の
オリンピックの射撃が行われた自衛隊の朝霞演習場になるのではないかな?と・・・
そうすれば、大江戸線の大泉学園までの延伸は期待できそうだ。

民農園・都民農園セコニック

吉祥寺駅から来る西武バスの行先表示に「都民農園セコニック」という妙な名前の路線がある。

ここに住んでいる自分でも良く分からない名前だ。 「都民農園」と「セコニック」
の間の言語感覚のギャップも違和感いっぱいなのだが、最近流行りの貸し
農園の名前か、というようなイメージを持っていたが、この辺りに農園は無い。
大泉学園町を南北に貫く大泉学園通りを北へ進むと、都県境を跨いで住所
は、我が町埼玉県新座市になる。この先に「都民農園セコニック」バス停が
あるのだ。大泉学園町の商店街・住宅地的な風景は都県境を越えると雰囲
気が変わる。練馬区側は立派に整備されている桜並木が都県境でなくなっ
てしまう。
何とも珍妙な名前のバス停だが「都民農園」というのはこのバス停の一つ置
いた手前、サミットストアの辺りに「都民農園バス停」や「都民農園前交差点」
というのがある。非常に紛らわしい。今でも利用しているが、よその人がこの
バスに乗ったら分かりにくいと思う。しかもそのバス停で降りても農園らしきも
のが見当たらないのだ。

どうやらその昔、東京都がレクリエーション農園を建設する計画があった
らしいが、これも色々あって頓挫したらしい。構想が実現せずに地名だけ残ったようだが、この中途半端さは、大学を誘致出来なかった大泉学園町の地名の由来とも共通しているような気がする。
でも、都民農園セコニックというバス停の名前は分かってしまえば、何と言うこともない。オシャレな農園の名前でも何でもないのだ。
都民農園は、前々バス停の名前だが、この近辺の範囲内ということで使い、セコニックは、今の大泉学園ショッピングセンターの敷地に在った、写真用露出計を主力製品にした精密機器メーカーの社名セコニックなのだ。
今でも、ショッピングセンターの建物の2階には株式会社セコニックの本社がある。
「都民農園セコニック」バス停の正体は、吉祥寺駅方面から来た路線バスの折り返し場と、大泉学園駅などから出ている別の路線バスがさらに先へと向かうバス停だったのだ。
そして、ここで大泉学園通りは終点となる。
大泉学園町いろいろ

風致地区
前述でも生い立ちを紹介したが、この大泉学園町は関東大震災後に郊外住宅地への需要に応え、箱根土地会社(コクドの前身)が開発した住宅地の一つだ。
最寄りの大泉学園駅から北に約1.5 〜2 キロ離れた場所に碁盤目状に整備された「風致地区」というエリアがある。
この辺りには、「風致地区」の交差点があったり、「大泉風致地区」というバス停など「風致地区」という言葉がたくさんみられる。その先には「都民農園」というバス停もある。

これらが出来るきっかけは、畑から始まった緑豊かな住宅地を守るために、昭和8年に「風致地区」が指定された。

風致地区とは、みどりや水辺など豊かな景観がある場所について、建物の高さや土地の使い方のルールを決めるもので、その頃の大泉学園町には、東京都民の憩いの場として整備された「市民農園」や「野遊場」なるものがあったそうだ。

その後、住宅建設が勢いづき、緑地や農地は減少したが、現在の街並みや緑地が残されたのは、都市計画法のうちのひとつである風致地区を指定したことが大きく貢献しているようだ。

おかげで、我が家から大泉学園町方面を眺めると、高い建物はほとんど無く、関越自動車道くらいで、大泉学園駅の近隣に建つ高層建物まで障害物が無く見渡せる。
大泉学園町は、桜並木の大泉学園通りを軸としたまちの構造になっている。
アカマツの大木が空を仰ぐみどり多き邸宅、公園、畑、生活に安らぎを感じられる環境だ。昭和30年代にはこの辺りに沢山生えていたと思われるアカマツが、今でもたくさん見られる。そのまま邸宅の庭木にでもしたような感じの光景である。

大泉学園町のメインストリートには、まだまだ昔ながらの商店が根強く生き残っているが、雑貨やスイーツの店なども多い。おしなべて庶民的な店ばかりで小洒落た感じはないが、そこが良い。街が出来た経緯だけを見れば田園調布などと大差ないと思うが、この違いは何なんだろう。
ちなみに大泉学園町は「社長が多く住む街」のトップ3に入っているらしい。成城、田園調布に次いで3番目だそうだ。この街並みからはイメージ出来ないが、学園通りから1本、2本通りを入ると豪邸が見られる。
これは、畑から始まった住宅開発によってできたものだ。当時の農地は、120間×40間(216m×72m)の短冊状に区切られた土地で、住宅開発には畑として利用されていた形が活かされているようだ。その原型の区割りは大正時代のもののようだ。
昭和40年代の販売当初は一区画300坪(36m×27m)で売り出されたと言う。上述の農地から約16に分割できることになる。今では、300坪の中に何軒かの住宅が立ち並ぶ光景がほとんどだが、そんな以前のまま300坪ほどの土地に建つ豪邸も何軒か見ることができる。

隣り街、大泉学園町

私が住む埼玉県新座市から、一ブロック先は東京都練馬区大泉学園町だ。
都県境に住んでいると、生活圏としてはどちらに入るか?なんていうことを考える。 交通の便、公共施設への近さや買い物の便利さなどで決まるのだろうが、そんな点で考えると、ここは完全に練馬区の圏内に入る。

この辺りに住んでいると、電車の最寄り駅は、西武池袋線の大泉学園駅か、東武東上線の朝霞駅でどちらへもほぼ3kmの距離だ。
最寄り駅までは、バスを使うのだが、大泉学園駅方面は我が家から100mほどのバス停から吉祥寺、阿佐ヶ谷、上石神井、大泉学園駅行きなど数路線のバスが走り、朝の時間帯は数分おきにバスが来るので、道路はバスが数珠繋ぎ状態にもなる。片や朝霞方面は10〜15分間隔で、途中川越街道を跨ぐために時間を要する。
商店街やスーパーマーケット、郵便局にしても、大泉学園駅から我が家の近くまでほぼ直線で通る「大泉学園通り」に数箇所あり、買い物等もこちらが便利だ。
そんな訳で、新座市民と言うよりも、大泉学園町のほうが我が町という感じがする。そこで、少しこの町を調べてみた。

学園の無い学園都市、大泉学園町

大泉の由来は、昔この周辺に多くの泉が湧き、小泉(おいずみ)と呼ばれていたそうで、市町村登録の際に「こいずみ」と間違いやすいので「小」を「大」として「おおいずみ」で登録したことから「大泉」の地名が誕生したという。

その後、農家の畑が多かったこの地に、大正13年、大学を誘致して学園都市を築く計画が始まったそうだ。

学園都市構想により大泉学園町と言う名前になったようだが、核となる高等教育機関の誘致は失敗し、一帯は高級分譲住宅地として開発され、その名残が大泉学園町という町名と短冊状に整理された区画になっている。

それから90年経った現在、大泉学園駅から北に伸びる大泉学園通りを中心に、短冊状の町は緑多き邸宅が立ち並び、学園を呼び込むまでにはいたらなかったが、その名にふさわしい文化かおる町になっている。


五味康祐・藤沢周平が住んでいた町

剣豪作家として知られる五味康祐は、「原稿を風呂敷に包み、タクシーに乗って出かける袴姿を見たよ」と、この辺りに住む人の間では有名だったとか。
住んでいた家の前の通りは、今でも「五味通り」の愛称で親しまれているそうだ。

藤沢周平のエッセイで「小説の周辺」の中に『郵便局の
角で』と言う作品がある。

「家の近くのひとが混雑しているスーパーの前を歩
いていると、すぐうしろでゴツンという音がして、つづ
いて火がつくように子どもが泣き出した。振り向くと、
幼児が地面にひっくり返って泣きわめいているので
ある。
子供が泣き、母親らしい若い女性は片手で荷物を押さえ、片手に自転車をつかんだまま立ち往生している。
それだけの状況と、その子供は自転車の荷台から落ちて、歩道に頭をぶつけたのではないかということを理解するまで、ちょっとの間があった。私はしばらく泣きわめく子供を眺めていたようである。
と思う間に、誰かがその赤ん坊を抱き上げて母親に声をかけた。まわりには大勢の女のひとがいて、そのひとたちも私と一緒に一瞬状況を眺めたようだった。だが私も、その母親と赤ん坊のすぐそばにいたのである。それなのに、まったく手が出なかったのだ。」
そして、「感動的な小説は書けても、目の前で歩道に落ちた子供を拾い上げられないようでは、人間として役立たずだと私は思っていたのである。この種の過剰な自責ぶりというものも老化現象の一種かも知れないのだが、とにかくこの出来事で、私は自分の人間としての衰弱ぶりに気づかされて唖然としたというぐあいだったのである。」


この様な光景は、毎日の生活の中にある普通の出来事ではあるが、私も孫がいて娘が自転車に乗せている様な歳なので、こうした出来事がきっかけで、人間としての衰えを知らされるのかと、ひとごとではないと思わされた一節だ。
そして、この光景は毎日のように私が通っている、学園通りにあるスーパーから見える郵便局前の交差点辺りでの出来事のようで、身近に感じる。
こうした市井の人びとを描いた小説家・藤沢周平は、亡くなるまでの約20年間を、大泉学園町に住んでいたそうだ。藤沢作品の多くはこの大泉学園町から生まれたものらしい。
いろいろ調べてみると、私の孫が遊びに行く大泉公園は散歩コースだったらしい。この公園のベンチに藤沢周平が座って、小説の構想を練っていたのだろうか。
藤沢周平は、雨でも降らない限り散歩を日課としたらしい。健康のためだったり気分転換もあったと思う。今でも緑に溢れ、武蔵野の面影を残す大泉学園町は、散歩には格好の場所だったのだろう。
自宅から少し離れた、大泉公園・・・住宅街の中に広場があり、公園を囲むように樹木も豊富な大きな公園のベンチに座りながら、行き交う人の流れに癒されていたのだろうか。
 その散歩道で立ち寄る、店があった。学園通りに面した サンロイヤルがその店、大体10時頃、決まって奥の席に着いてコーヒーを注文したそうだ。

著名人に愛された、文化のまちの一面も伺える大泉学園町である。
長、著名人も住んでいる町
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2014  Feb.25   tama
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