世界の貨幣見聞録 1  フィリピン

自然見聞録も猛暑酷暑で出歩くことが億劫になり、ネタがない。何かないかと考えていたら、昔行った世界各国の貨幣が残っていたので整理して見たら、紙幣・コインが結構あったので、その国と貨幣を紹介しようと思う。
しかし、海外へ出かけていたのは1970年代後半から1990年くらいまでなので、それ以降国情が変わって現在では貨幣単位が変わっていたり、使用されていなかったり、ヨーロッパのようにEUに加盟してユーロになったりしているので、あれ!違うよ、なんて事もあるかもしれない。

最初の海外出張は、忘れもしないフィリピン。成田空港が開港した1978年だ。今のように電車が空港内へ乗り入れてなく、電車を下りるとバスで空港へ向かうが、バスに乗り込む際に荷物検査(セキュリティチェック)があり、それを済ませ空港内へ入り、搭乗手続き前のエリアに入るときにも更にセキュリティチェックがあった。あの頃は託送品も沢山あったので、家を出て搭乗手続きまでに3時間は見ておかなければならなかった。
あの頃に比べれば、今は電車で日暮里-空港間が36分になり空港内まで入るから、成田空港と言ってもずいぶん便利になったと思う。

フィリピンは、大小約7,100もの島で構成されているが、面積的にみれば、日本の80%くらいのようだ。

人口は、9,000万人弱で民族的にはマレー系を中心に、中国系、スペイン系、これらの混血、更に少数民族と多彩な顔ぶれだ。

言語は、国語がフィリピノ語、公用語はフィリピノ語と英語だが、会ったほとんどの人は英語が分かった。フィリピノ語というのはたぶんタガログ語ではないかと思うが、最近の呼び方がそうなったのだろう。
また、今は数が少なくなってしまったが、戦争を経験した人たちは、けっこう達者な日本語を話す人もいて、我々と会話が出来た。

宗教は、国民の80%がカトリック、その他のキリスト教が10%、イスラム教は5%だそうだ。

フィリピンの通貨単位は、フィリピン・ペソ(ピソ)。補助単位としてペソの1/100のセンタボが使われているが、スペイン語のセンタボかフィリピン語のセンチモと書かれているものがある。手元に紙幣が残っていないので、どんなだったか忘れてしまった。手元にいくつかあるコインを紹介する。

1Piso(ペソ)コインは、ずいぶん大きい形だと思っていたが、日本の500円コインを一回り大きくしたくらいで、後に出会ったシンガポールの1ドルコインに比べれば、それほど大きくは無い。
デザインとしては、フィリピンの独立指導者ホセ・リサールが描かれ、[REPUBLIKA NG PILIPINAS] 1PISO、反対面は国章と[ANG BANCONG LIPONAN]という、たぶんフィリピン中央銀行と書いてあるのだろう。

25センタボコインは、3種類が手元にある。
25centabosコインは、女神のような人が右手にトンカチを持って何かやっている。後ろにはピナツボ火山のような山が描かれ[TWENTY FIVE CENTAVOS]、反対面は、国章を囲むように[CENTRAL BANK OF THE PHILIPPINES]と書かれている。1962年。

25sentimosコインは、フィリピンの画家、彫刻家ホアンルナイの横顔を囲むようにフィリピノ語で[DELWAMPUT LIMANG SENTIMOS]で書かれ、25 JUAN LUNAと名前が刻まれている。反対面は、国章を囲むように[CENTRAL BANK OF THE PHILIPPINES]と書かれている。1972年。

もう一つの25sentimoコインは、ホアンルナイの横顔を囲むようにフィリピノ語で[REPUBLIKA NG PILIPINAS]とJUAN LUNAと名前が刻まれている。反対面は、蝶の絵柄の上に25sentimoと書かれ、アオスジアゲハ属[GRAPHIUM IDAEOIDES]と蝶の説明が書かれている。1984年。

50sentimosコインは、マルセロヒラリオデルピラールイ(フィリピン人の作家)の横顔を囲むようにフィリピノ語で[LIMAMPUNG SENTIMOS]と書かれ、50 MARCELO H. DEL PILARと名前が刻まれている。反対面は、国章を囲むように[REPUBLIKA NG PILIPINAS]と書かれている。1967年。


5センタボコインは、2種類。
5sentimoコインは、フィリピン革命の母といわれているメルチョラ・アキノの横顔を囲むように[REPUBLIKA NG PILIPINAS]と書かれ[Melchora Aquino]と名前も書かれている。反対面は、ワリン・ワリン(Waling Waling)という、ラン科の植物で、バンダ・サンデリアナ(Vanda sanderiana)が描かれている。1882年にミンダナオ島で発見されたという。このコインは他のと違い唯一アルミニュウム製だ。1986年。

もう一つの5sentiomosコインは、形が他のと違った波打った外周が特徴で、メルチョラ・アキノの横顔を囲むように[REPUBLIKA NG PILIPINAS]と書かれ5sentiomos、[Melchora Aquino]と名前も書かれている。
反対面は、これも他のコインと違っていて、外周はフィリピノ語で[ANG BANCONG LIPONAN]と書かれ、その内側に円周が描かれ内側に[BANGKO SENTRAL NG PILIPINAS 1949]と書かれ、更に内側に円周が描かれ労働者が働いている絵柄が描かれている。1976年。

10centavosコインは、25centabosコインと同じデザインで、女神のような人が右手にトンカチを持って何かやっている。後ろにはピナツボ火山のような山が描かれ[TEN CENTAVOS] 1966と記され、反対面は国章を囲むように[CENTRAL BANK OF THE PHILIPPINES]と書かれている。小形である。

ちょっと珍しいかなと思ったものを、大きめにして見た。
5sentiomosコインは波打った外周が特徴敵だ。
25sentimoコイン蝶の絵柄でアオスジアゲハ属[GRAPHIUM IDAEOIDES]と蝶の名前が記されている。
25centabosコインは、女神のような人が右手にトンカチを持って何かやっている。後ろにはピナツボ火山のような山が描かれている。

後で分かったが、「女神のような人が右手にトンカチを持って…」という私の勝手なコインの解説も強ち間違いではなさそうだ。本当は次のようだ。【自由の女性像が右手でハンマーを金床の上に打ち下ろし、左手はオリーブの葉を持つ立像。背景はマニラ北西にあるマヨン活火山。】
ピナツボ火山ではなかったが、コインを見ての説明とそれほど違うものではなかったようだ。アメリカ植民地時代にデザインされたものが、独立後のコインにもそのまま使われていたようだ。

今、手元にあるフィリピン硬貨は歴史的に見れば、ほんのわずかな時期のものだが、フィリピンの硬貨の歴史を見ると、1516年〜1902年のスペイン植民地時代、1903年〜1934年のアメリカ植民地時代、1935年〜1945年の独立準備政府時代、そしてようやく訪れた1946年〜のフィリピン共和国時代と国家体制の変革と共に変わって来たようだ。
通貨単位は、1966年までがPESO(ペソ)とCENTAVO(センタボ) 1 PESO=100 CENTAVO、1967年以降はタガログ語表記のPISO(ピソ)とSENTIMO(センチモ) 1 PISO=100 SENTIMOとなったという。

ミンダナオ島 カガヤンデオロ
マニラに着いて2日目、いよいよ地方に移動だ。ミンダナオ島のカガヤンデオロ(黄金のカガヤン)へ行くことになった。

国内線で約1時間半、ミンダナオ島の北の玄関口といった場所だ。昔は金が採掘されたのだろう。今は(1978年)デルモンテのパイナップル農場が広がっていて、パイナップルが安く手に入った。
当時の(今は知らないが)カガヤンデオロの空港は小さくて、双発プロペラ機だった。あの頃フィリピンの国内線では、日本が作ったターボプロップのYS-11がかなり多く飛んでいて、島々の移動にはちょくちょく乗った。
カガヤンデオロの空港に飛行機が到着して、窓の外を見ると あっ!と言うほどの驚きの光景が目に入ってきた。
それは、空港周囲を、迷彩服に自動小銃を手にした兵士がずらっと並んでいたのだ。飛行機から降りて、空港ビルに歩いていく通路の両側もそんな兵士が2m間隔程度に立っていて、見慣れない光景に、大変な所へ来てしまったと思ったものだ。

それもそのはず、このミンダナオ島には、ミンダナオ地区にイスラム教で統治する自治区を作ることを目的としたイスラム教徒のモロ国民解放戦線という武装闘争をしているグループがあったからだ。このグループは1800年代の頃から闘争をしているようだ。
そんなこともあって、カガヤンデオロから他の地域に陸路で移動する時は気をつけるように聞いていた。

カガヤンデオロは、最初は軍隊姿の強烈な印象で迎えられたが、その後ここには長居をすることになって、住めば都、結構優雅に過ごした。
滞在したのは、カプリスバイザシーというリゾートホテル風で、部屋が海に突き出ているような感じで、ベランダの下は魚が泳いでいる姿が見えていた。他に適当なホテルが無かったようだ。

ここでは、工事が終わっていなく、必要な部品を持ってきたのだが、まだ我々の出番ではなく、他の島の局もそれほど進捗していなく、工事が終わらないうちに出来ることから試験を始めるという進め方だった。納期が決められていたのでそんな風だった。なので他の島へ行っても仕方ないので、ここで工事を手伝いながら待つことになった。

カガヤンデオロは、それほど大きい街では無かったように記憶している。夜だって数件のバーやディスコがあったくらいだと思う。
フィリピンはどこでも海が近いから海産物が安く、エビやカニが美味かった。ただ茹でたエビやカニを醤油に青唐辛子を爪楊枝で一刺しして、汁を一滴垂らしたものをつけて食べるだけなのだが、ピリッとした辛味、これが美味い。サンミゲールというフィリピンのビールがこれまた美味く、つまみには最高だった。

海が見えるレストランで、夕日が海に沈む光景を見ながら、お腹いっぱい皆で食べて飲んで、ご飯はもち米が入ったようなオコワの感じで美味かった。

休日は、海へも行ったが、海とは反対の濃い森林で大木が茂っている山のほうへ出かけることもあった。この辺りのカガヤン川の両岸には、いくつかの洞窟があるようで、今の資料を見ると何々洞窟と名前が付いて、観光名所?になっているようだが…。

その頃は洞窟の名前なんて知らず、休日に暇面をしている日本人が居るのを見て、地元の人が洞窟があるから見に行って来たらどうか、と進めてくれたので行って見た。

この時行った洞窟は、今「何々洞窟と名前が付いて、観光名所?になっている」場所とは違うような気がする。確か、カガヤンデオロから西に車で山越えして、約3時間のところにあるイリガンと言う小さな町へ向かう道路脇から入った所に在った様な気がする。

地元で雇っていた運転手に連れて行ったもらったので定かではない。かなり大きな洞窟で、こんな洞窟なら昔の人が住めたのではないかと思われる。あの小野田さんはルバング島で生き延びていたのも、こんな洞窟があってのことだろうか。

フィリピン共和国  
Republic of the Philippines

しかし、この洞窟へ出かける前に、いろいろ恐ろしい話を聞かされて、気をつけろと言われた。それは、洞窟そのものではなく治安だ。
前述したように、ミンダナオ島には以前から反政府組織があり、あの頃も始終政府軍と戦っていた。フイリピンでは密造された銃やピストルは簡単に手に入ったので、現地の運転手から「政府軍や警察の制服を着ていない連中に道路上で停車を命じられても、自分の車は絶対に止めるな。彼らは、大抵物取りだから車のスピードを上げて突き切ること。その場合、相手を怪我させても止む得ない」と常々言われていた。 「自分の身の安全は自分で守る」と言う精神が、事件の多い国に住む彼らには自ずから身についていたのだ。
ミンダナオ島では、カガヤンデオロの他にサンボアンガという場所にもサイトがあり、同じ頃仲間が行っていたが、宿泊していたホテルの隣りのガソリンスタンドで爆破テロがあったとか、ダバオで銃撃戦があったなど、物騒な話を何件も聞いた。
私が居たカガヤンデオロは、そうした話は聞くが、恐ろしい目に合う事もなく、約1ヶ月を無事過ごせた。

レイテ島 タクロバン
レイテ島と言えば、レイテ湾とその周辺海域は、太平洋戦争中に世界海戦史上最大の激戦となったレイテ沖海戦の舞台として有名だ。

マッカーサー率いるアメリカ軍部隊は1944年10月20日レイテ湾に上陸、ここからフィリピンを日本軍から奪回する第一歩とした。
その後フィリピンにおける決戦・レイテ島の戦いが全島を戦場として巻き込んだが、日本軍は物資補給・兵員補給の輸送船が途中で沈められ、補給を断たれた8万人以上の兵士が、ほぼ全滅し惨敗したそうだ。
生き残った兵士はわずかで、数多くの島民が日本軍とのゲリラ戦に参加したほか、戦闘の巻き添えで一般人も犠牲となった凄惨な戦場だったようだ。

しかし、私が訪れたときは、戦後三十数年。すっかり様子は変わり、マッカーサーが上陸した場所は、レイテ島の中心タクロバンから10kmほど南へ下った所で、今はマッカーサーランディング公園として整備されていたし、レイテ湾は静かで、聞いたことしかない凄惨な戦場だったことは考えられもしなかった。

レイテ島と隣りのサマール島の間のサンファニーコ海峡には、その当時マルコス橋(今はサンファニーコ橋)が、日本の戦後賠償で建設された。長さ2.6km圧縮伸張のアーチ橋だ。
タクロバンは、マルコス元大統領の妻、イメルダ・マルコスの出身地でもあり、この辺りは片田舎の農道までコンクリート舗装がしてあって、イメルダの威光を感じさせた。

しかしマルコス夫婦による国家の私物化は国民の反発を招き、1983年8月に発生したマルコスの政敵のベニグノ・アキノ暗殺事件に端を発して、1986年に発生した「人民革命」でマラカニアン宮殿を追われたマルコス夫妻はハワイに亡命した。
マラカニアン宮殿には3000足の外国製靴やブラジャー、数え切れないほどの香水が残されていたと話題になった。

過去には、悲惨な戦争の舞台だったり、後の日には、「人民革命」が起きて失脚するマルコス元大統領婦人のゆかりの地だった・・・、そんないろいろな事など、想像も出来なかったタクロバンだった。

パラワン島  プエルトプリンセサ
パラワン島は、他の島とは離れて、フィリピンの南西部にある孤島といった感じの島。北西を南シナ海、南東をスールー海に面し、ミンドロ島とボルネオ島(マレーシア)の間にまたがる、南北の長さ397km・東西の幅の平均約40kmと極端に長細い島だ。

ルソン島、ミンダナオ島、サマール島、ネグロス島に次ぐフィリピンで5番目に大きな島で、主な都市は、島の中央部にあるプエルト・プリンセサだ。
この島も、今の情報を見ると観光化が進み多くのホテルが建ったり、いろいろな観光施設も出来たようで、行った当時と全く変わったイメージだ。

1978年当時、パラワンは本当にイメージ的にも決して良いことは無く、むしろ悪いイメージの島だった。

それでも、海は綺麗だったので、休みの日には船を借りて、沖合いにある小さな島へ出かけた。無人島で砂浜は真っ白で、周囲は珊瑚礁の海で水深は5mくらいだった。
潜ると、きれいな珊瑚礁の間に色取り取りの熱帯の小魚や食べられそうな魚も泳いでいた。
ビールと食べ物、釣り道具など持って行き、魚を釣ったり貝を採って、海水で濯ぐだけで、海水の塩味で美味しく刺身でいただけたことを思い出す。

それは、飲み屋の女の子たちが流れ着く場所。マニラなどの華やかな場所で働いていたが、病気になってマニラでは働けなくなった女の子たちが、行き場を探し当てたところが、ここプエルトプリンセサ。
この島には、刑務所があった。ここでは黒檀を使った家具を作ったり、水牛の彫り物をして受刑者が作った作品を安く販売していた。

それでも、プエルト・プリンセサなんてしゃれた名前の街だから、何か憧れみたいなものは抱いて向かった。
そんな場末的な感じのする島だったから、今の様子は考えられない。

9月に出かけ、12月20日で最初のフェーズが終了し帰国した。
フィリピンの主だった島を移動しながら仕事をしたり、観光もした。マニラや各島内の移動は、運転手と共に雇ったジプニー、地方でちょっと気楽に乗れるトライシクル。走っているジプニーはどれもど派手な色合いと飾り付けを施してあり、運転手は、それを自慢していた。

フィリピンの言葉は、ほとんどの人は英語で疎通できるが、歳をとった人たちの中には、タガログ語(フィリピノ語)やスペイン語という人たちも居た時代だったし、日本語を話す年寄りも多かった。

あの頃は、まだ戦後三十数年だったので、戦争体験者がたくさん居て、けっこう反日的なことを言う人たちが多かった。あるとき、雇っていた運転手が、家へ来て飯を食べてくれと誘ってくれた。それじゃあと、皆で彼の家に出かけて、食事をしたり飲んでいたら、彼の祖父が出てきて、良く来たと、孫のことやいろいろ世間話をしているうちに、戦争の話になった。
彼は、時々日本語も交えて、日本軍の兵隊に並ばされて、往復びんたを何回も食らったと話した。

マニラに滞在していたときは、長逗留なので安いホテルと言うことで、チャイナタウンにあったホテルに滞在した。オーナーは中国人なので、いつもフロントにいていろんな話をした。そんな中でマニラ湾にあった、フローティングカジノへ行こうと言う話しがあり出かけたことがあった。後に火災でそれも無くなってしまった・

タクシーでぼられそうになったこともあった。地方からマニラに上がってくることは、何回もあったのでタクシーで、空港から事務所やホテルへ行くことは何回も経験していて、料金もそれなりに分かっていた。
そんなある日、空港から乗ったタクシーで、いつもならメーターを倒すが倒さない。そのうちに今夜のホテルを紹介するという、もう決まっているから結構だと言うが、通り道だからちょっと見てくれとしつこい。じゃあここでいいから降りると言うと、メーターをさっと倒し100ペソだと言う。ちょうど信号で止まったところに警察官が居たので、ちょっと来てくれと言って、呼んでこういう事情でしつこいし、100ペソ請求されている。いつも空港から事務所へ乗っても80ペソくらいなのに、ここで100ペソは高い、何とかしてくれというと、運転手は警察官にさっと金を握らせ、警察官は、メーターがこう出ているんだから100ペソ払へだと。

今は知らないが、あの頃のフィリピンのタクシーは日本のタクシーの中古を使っていて、メーターも日本のそのままで円で表示していて、10円単位で100円で100ペソになっていた。

初めての出張でいろいろ驚くことばかり、話には聞いていたことが現実として起こったり、日本では、銃を持って街中や空港などでいる人といえば、お巡りさんくらいで、自衛隊でも銃を持っている人はあまり見かけない。そんな国から行って、自動小銃を持った兵隊がすぐそばにいて、なんだか怖い国に来てしまったなあという思いだった。

その後、いろんな国へ行ってみて、アレはごく普通なんだ、日本は平和な安全な国なんだということが分かった。

もう行かなくなった海外出張。良い事も恐ろしいことも嫌なことも、いろいろあって、どの国もいまだに鮮明に思い出せるが、いろいろな事が変わり、面影も無くなってしまったところもあるだろう。
機会があれば行って見たい気もあるが・・・どうだろう。

観光旅行では、めったにこういう事はないだろうが、東南アジアやアフリカ、中南米の国などでは係官が「袖の下」を要求する、ということがよくあることを、何回か出張するようになってから分かってきた。

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2010 Jun.31 tama

空港ビルまでは、歩いたのかバスだったのかは忘れたが、入獄審査が済んで税関だ。この出張では、装置の一部品を荷物として持って行ったので、カスタマー荷物を開けられた。
機械類なので女性のカスタマーなら機械の事はあまり分からないだろうから、さっと通してくれるのではないかと思い、女性のところへ行ったのが大間違い。
分らないから、いろいろ説明すると、さらに分ってもらえない。ついには別室へ連れて行かれ、更に詳しく説明をしたが、高い税金を支払えと言われ、払わないのなら荷物を置いていけと言われる始末。どうも、それは彼らの常套手段で袖の下の要求だったようだ。

その様子を見ていた出迎えの人が、そこは東南アジアの国、係の人にちょっとお金を渡し、中へ入って来て話しをして、私と荷物を引き取ってくれたのだ。
ちょっと助平根性を出したのが、大きな間違いだった。

この時の私たちの仕事は、フィリピン国内の通信網が各島単位に通信会社があり、それらの相互の繋がりが粗雑なために、マニラから他の島へ電話をしても、申し込んでからしばらくしないと繋がらないなど非常に不便で会った。そこで各島に衛星通信局を造り、衛星通信で各島間を繋げれば設備もコンパクトに出来るので、衛星通信システムを導入するプロジェクトだった。
我々は、建設工事終了後に、通信局舎、無線設備や電源設備を動作させ、本来の性能を確認する。そして、アンテナを実際に使用する衛星にアクセスして、アンテナの性能を確認し、衛星通信局として決められた性能が満足している確認する。そして全局間で通信試験を行い、完了後は客先へ引き渡す。そんな仕事をしたのだ。
この仕事では、主だった地方の島を点々としたので、すべての記憶も無く、長く滞在したり印象に残っている地域を紹介しようと思う。最近の情報を見ると、あの頃とは全く別の地かと思うような変わりようだ。
さてさて、フィリピンの貨幣の話はこれくらいにして、冒頭で少し書いたフィリピンへ行ったときの話をしよう。
フィリピンは最初の海外出張だったので、見ることすることすべて初めて。その前にハワイは1回行ったことがあったけれど、仕事では初めて、それも一人で行くので凄く緊張した。現地に居る人が出迎えに来てもらってはいたものの、イミグレーションやカスタムクリアランスなどは自分で通らなければならず、ハラハラドキドキしどうしだった。

1978年9月13日午後のSAS便だった。なぜSASなんて北欧の航空会社だったのかは分らないが、約4時間半のフライトで夕方マニラに降り立った。今のようにボーディングブリッジは無く、タラップを下りていくと南国特有のムッとする湿り気たっぷりの空気が肌に纏わり付いてきた。機内の適温、適湿が体に馴染んでいたので、地上に立ったときに漸くその感じが来た。
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