スリナム共和国
Republic of Suriname
ガイアナ共和国
Republic of Guyana
トリニダード・トバゴ共和国
Republic of Trinidad and Tobago
【我が家に飾ってある木工細工の原住民像】
【仕事仲間:
前列ITUのエキスパート・ピキノティ(イタリア人 )・私 。 後列左・インド系テクニシャン・マナー/右中国系ステーション マネージャー・シナタム。中・日本人】
【オープニングセレモニー用に作られたパンフレット。オランダ語と英語で書かれていて、通信機器の紹介、アンテナの仰角や最初の通信相手国など紹介されている。】
【仕事先のLTTオフィスの近くの街角風景(右)1979年(下)現在。それほど変化が見られない】
夜中にニューヨーク行きは離陸した。
途中カリブ海のいくつかの島を経由して明け方ニューヨークのケネディ空港に着いた。ここまでくれば、ホッとできる。ホテルへ入り、昼頃出発の東京行きまで休むことにした。
ところが、いざ帰国と言うことになったのだが、その少し前にVISAが切れていたのだ。帰りの航空券はオープンで持っていたので、予約をすればいいのだが、空港のイミグレーションで何らかのトラブルになるのでは?と…ずっと世話になっていた、ステーションマネージャーのMr.Chin
A Tamに話すと、俺が一緒に行って話すから問題ないという。
そして、帰国当日。ステーションマネージャーのMr.Chin A Tamが空港まで送ってくれてイミグレーションでは、もう出国するのだから問題なしだったが、航空会社からストップがかかってしまった。
帰国のルートは、スリナムからトリニダードトバゴのポートオブスペインで乗り換えてニューヨーク・東京なのだが、トリニダードトバゴのトランジットで東南アジア人は入国できないというレギュレーションがあるから搭乗させられないという。
え〜?なぜ今頃。航空券を予約した時点で分かるだろう??と。ステーションマネージャーがいくら掛け合っても、マニュアルを持ち出して、ここにこう書いてあるから、という。それじゃあ、航空会社は知らなかったことにして自己責任で、と なるようになるから・・・と、やっとOKをとり、機上の人となった。
バイバイ、スリナムと眼下に広がる南米大陸を見下ろしながら高度を上げていく。アマゾン川から大西洋に流れ出した泥水は海岸線に沿ってトリニダードトバゴ近くまで、それと分かる海の色とは違う一筋をつけていた。
流れ出している川は、濁っているわけではないが、濃い黒緑のような色をしてゆったり
と流れ、まさに、アマゾン川の流れを思わせる雰囲気だ。
川の流れを見ていると、この辺りの住民が漕ぐ舟が、川面を滑るように進んできた。1本物の木材をくりぬいた様な、細長い船を器用に操っていた。
やはり、ボーキサイトが採れるというので、土は赤く、赤い土ぼこりが舞い上がる。髪の毛の間にも沢山入り込んで、帰ってからシャンプーをしたら、赤土の泥だらけの水が沢山出た。
6月6日に出発して、長期に渡る仕事も、終了した。結局、8月1日から10月31日までの3ヶ月のOperation
and Maintenance Supervisoryの予定が、ほぼ1ヶ月延長され、11月20日に無事、[Acceptance
certuficate for operation and maintenance advisory for E/S Santo Boma Suriname].というレターが客先から発行され、人質も解放されることになった。
そんな人質生活にも先が見えてきたある日、スタッフの一人が、たいした観光地も無いが、内陸に入ったところに湖があるから行って見ようという。
そこは、Brokopond湖(プロコポンド)と言う、世界で最も大きなダム湖の一つだそうだ。この国の唯一の産業と言えるボーキサイト産業のための電力供給と国内消費のために水力発電用に建設されたそうだ。
この辺りの内陸まで行くと、やっぱりTVの○○探検隊に出てくるような風景が見られた。パラマリボ市内では、あまり見られない先住民らしき裸族のような人たちに出会った。水辺で洗濯をしていたが、裸で女性もおっぱいを出しっぱなしでいた。何だか見ていると悪いような気がしてくるが、彼らはそんなこと全く気にしていないようだった。
南米にありながら南米の国にあらず、とは言え、やはりそこに住む人たちはマルーン、クレオールといった祖先をアフリカに持ったり中南米育ち、リズム感覚は良く、陽気で、2、3人寄れば、その辺にころがっている物を楽器代わりに歌をうたい踊りだす。誘われるままに一緒になって歌い踊る。そして飲むことも大好きだ。アルコール度が60〜70度と高いが、値段は安いサトウキビから作るラム酒を買ってきて、これも安く一袋40kgくらい入ったオレンジを買ってきて、搾りラムに落として飲む。皆良い気分で歌い踊った。
開局式の前、既に8月1日から、私が一人、LTTの運用スタッフに対する教育と運用保守支援のために3ヶ月間残ることになっていて、契約書に基づきスタートのレターが発行された。言わば人質だ。3ヶ月間機器の故障が無く、契約のカリキュラムでスタッフに衛星地球局のオペレーションとメンテナンスが出来るように教育しろ、ということだ。
24時間運用だったが、あの当時はまだ携帯電話なんて無かったので、住んでいる所へ無線電話をひいて、何かあったらすぐ呼び出せるようにした。
シフトパーティが何組かあり、機器の取り扱い説明、メインテナンス、毎日のインテルサットオペレーション局とのやり取り、回線設定試験方法等・・・忙しい毎日が続いた。
そして3ヶ月のうちの2ヶ月が過ぎた頃、機器の障害が発生、結果的に3ヶ月で終わるはずだった人質は1ヶ月間伸びてしまった。
我々の作業も終わり1979年8月25日には、
スリナムのSanto-Boma EarthStationの
開局式が行われた。
こうしたオープニングセレモニーは、後進国
ほど派手で仰々しく遣るものだと思った。
通信省のお偉方やLTTの幹部などが集まり
盛大に行われた。
まあ、無理も無い。今までは国際通信といえ
ば、隣りのフランス領ギアナとの間でマイク
ロ波通信で繋がり、そこから各国へと結ばれ
ていたものが、今度は直接各国と通信が出来るのだ。
特にアメリカは、スリナム人の移住先として、オランダと共に希望の地であり、多くのスリナム人がアメリカに住んでいたので、アメリカと直接繋がることになり、皆喜んでいた。
最初は、アメリカのアンドーバー地球局、フランス、
スペインの3カ国と接続された。
世界の貨幣見聞録 2 スリナム ガイアナ トリニダード・トバゴ
手元にある貨幣は、コインが3種類と紙幣一種類だ。
コインは10、25、1セントで片面(下列)に外円周に文字をデザイン化したような紋様で囲い、中に通貨単位と発行年が記されている。
もう一方の面は、外周に月桂樹?何かの葉っぱを配し、真ん中には原住民(昔良く言っていた土人)のデザインと国名SURINAMUが記されている。
原住民らしきものについては、良く分からないが、お土産でも木工細工の原住民らしきものを持ち帰って部屋に飾ってあるが、何かそれと通じるものがありそうだ。
紙幣は、1ギルダー。片面にはスリナムの1ギルダーと書かれ、訳の分からない紋様。反対側は、1ギルダー通貨と書かれ、オーソライズされた日付け、大蔵大臣が発行した年月日が記載され、中央銀行か、大蔵省の建物が印刷されている。
ガイアナの貨幣
ガイアナの貨幣と言っても、持っているけれど実際使用したかは定かではない。たった一日の滞在であったから。
コインは10セントと25セント、紙幣は1ドルだ。コインは、ガイアナもスリナムと同じような、原住民かマヤ文明にでも出てきそうな王の象徴をガイアナジャガーが守り、下中央にはHoatzin(ツメバケイ)と言う国鳥が配されて、国のモットーらしき【One People, One Nation, One Destiny 1人、1つの国家、1つの運命】と記されている。
片面は、外周にBANK OF GUYANA、下に発行年号、やはり国鳥のHoatzin(ツメバケイ)を2羽配し、中央に貨幣単位を記している。
あの当時から、紙幣にこの滝が描かれていたが、この滝が今は観光地として繁栄しているようだが、ちょっと考えにくい。まあ、30年もの時が過ぎればそのくらい変わらないとおかしいと言えば、その通りだ。
トリニダード・トバゴの貨幣
トリニダード・トバゴもたった一日の滞在で、ホテル代と食事代、タクシー代くらいしか使った覚えがない。
5ドル紙幣と25セントコインが手元にある。
5ドル紙幣は、緑が基調の色となっている。中央には国章が描かれている。国章は、コロンブスが「新世界」への旅に使った3隻の船。その上の二羽のハチドリが描かれ、その左右外側には、二羽の大きな鳥(左)スカーレット・アイビスと(右)コクリコの国鳥が描かれている。その下には、トリニダード・トバゴのモットー【TOGETHER WE ASPIRE, TOGETHER WE ACHIEVE】「我ら共に熱望し、我ら共に成し遂げる」が記されている。
左側には、何やら植物が描かれているが何だか分からない。裏面は、シンプルにトリニダードトバゴの中央銀行の建物らしきものと、クレーンの作業風景が描かれているが、国のモットーである、我ら共に成し遂げるに関係することがあったのだろうか。
(トリニダードは十六種類以上の異なるハチドリが島に記録されているため、時々「ハチドリの地」と言われる)。
5セントコイン
このコインは銅貨のような色だが、本当は何だか分からない。
表面は外周にTRINIDAD AND TOBAGO 1976 と書かれ、中央に国章が描かれている。裏面は大きく国鳥のコクリコが描かれ、5CENTSとシンプルなデザインとなっている。
時は、1979年6月、行く先はスリナム。職場では、太平洋を渡るチャンスはなかなか無いと言っていたが、私はこのチャンスが意外に早く訪れた。
成田を夜発って、約12時間の飛行でニューヨークに到着、ここで一泊だ。いつものことだが、出張に付き物の託送品がいっぱいでダンボール箱が10箱を超えていた。
これらは、既に数ヶ月前からガイアナの通信設備のオペレーション&メンテナンスを担当している同僚が滞在中だったので、そこへ届ける物と目的地のスリナムへ持っていくものとがあった。今のように国際宅配便が簡単に使えればいいのだが、送っても通関などで手間取り、国によってはなかなか取り出せないところもあったので、出張者には託送品は付き物だった。
2人で10箱以上を持っていくから、いくらトランジットでも通関が大変だ。ニューヨークのJ.F.ケネディ空港では、案の定税関員に質問攻めの末、別室へ連れて行かれた。でも、いろいろ話しているうちに、それは大変だ、じゃあ翌日のガイアナ行きの便が出るまで、ここで保管してやるよ、と すっかり仲良しになった。
ガイアナ共和国
ガイアナは、既に書いているように、たった一日の滞在なので、それほど書く事もないが、印象などを書いておこう。
出発前のガイアナのレクチャーでは、世界の最貧国に属する国で、腕時計など金目の物や貴重品は目に付かないようしておくように言われていた。何と言ってもメインストリートを牛が引く車が通るくらいで、車も通るがそれほど交通量はなかった。
腕時計など通りすがりにもぎ取られることがあり、うまく盗れなかったら切りつけてまでも盗られるなんて、恐ろしい話を聞いたが、既に帰国していた人は、実際そんな目にあっていた。
翌日には発つので、ゆっくり街を見て歩くことも出来なかったし、然して見るところもなかったが、買い物に出かけてみたところ、普通なら品物が店頭に並んでいるが、ここでは鉄格子があり、その向こう側に品物が並べてあり、品物と代金の受け渡しは鉄格子の中ほどに開けられた小窓を通して行う。外を歩いていたときは、聞いていたほど物騒ではないと思ったが、こんな光景を見ると、やっぱり恐ろしいことが起きるのかなあと感じた。
本当に、何も無い国と言った印象だった。
スリナム共和国
スリナムの面積は日本の約半分程度で、首都はパラマリボ。今の人口約46万人だそうだが、あの頃はどのくらいだったのだろう?
民族的には多種でインド系、中南米などで生まれ育ったスペイン、フランス人などのクレオール系、西インド諸島、中央アメリカ、南アメリカ、北アメリカの逃亡奴隷であったマルーン系、オランダの植民地だったインドネシア系、先住民系、中国系そして一番少ない白人系と雑多だ。
スリナムの周囲は、東にフランス領ギアナ、西にガイアナ、南にブラジルと国境を接し、北はカリブ海、大西洋に面している。
言語は、オランダ語が公用語だが、各民族の言葉が使われていた。仕事の相手は英語だが、中国人とインド系の人だったのでヒンズー語、中国語がよく聞かれた。南米らしからぬと言えども、スペイン語はかなりの人が話せるようだった。
日本を発ってから4日目の昼過ぎにスリナムの地を踏んだのだが、その朝発ったガイアナとは全く違う感じで、普通の国へ来たという印象だった。空港は、パラマリボの市街地からは50〜60kmも離れた、周りは緑の地で、空港へは先発して工事に当たっていた人が迎えに来てくれた。
さて、貨幣の話はこれくらいにして、あの当時の南米にありながら南米の国にあらずといったギアナ三国のうちのガイアナ、スリナムそしてトリニダードトバゴの話をしよう。
そんな話の中でも、ガイアナの事はあまり知らないようだった。前年の1978年ガイアナで起こった「人民寺院」の集団自殺事件の話をしたが、そのことも知らず、話しているうちに彼らの中に集団自殺事件のことを知っているという人が出てきて、ガイアナについていろいろ話してくれた。
翌朝、J.F.ケネディ空港の税関で荷物を引き取って、いよいよガイアナ行きの航空機へ乗り込んだ。たぶん5〜6時間のフライトだったと思うが、ガイアナの首都ジョージタウンに到着した。空港は閑散としていて、同僚が迎えに来てくれていた。
【JFケネディ空港近くのホテルから6月のニューヨーク】
でも、大雨が降ると滞在していたホテルの前の道路は水浸しになって、最近の日本のような感じになる。
スリナムでの生活は、日中は暑いので商店やお役所の営業時間は14時までで閉まってしまう。商店は夕方になると再開するが、その間は、街全体が静まりかえってしまう。今でも、あの生活時間帯なのか?変わったのかは分からない・・・。
私の仕事も朝7時に始まり14時までだった。
14時少し前になると、仕事場に来ているLTTの職員が帰ろうと言って来るので、仕事の切れ目のいい所で終わって街のオフィスへ帰り、その後は運転手に送ってもらう。
最初の1ヶ月くらいはホテル暮らしで、昼過ぎに帰るとやることが無く、プールで泳いだり昼寝。でも、ここは日本人、何だか後ろめたい様な気がして仕方なかった。でも、郷に入っては郷に従う、という気持ちに切り替えた。何と言っても、半年もここで過ごさなければならないかと考えたら、そこに順応することが一番と思えてきた。
そんなある日、プールで泳いでいたら、白人の綺麗な婦人が子どもを連れて泳ぎに来た。でも、子どもの肌は黒く母親と対照的でびっくりした。
今は、日本でもそんな光景を目にすることは珍しくないが、あの当時、私もまだ若く、ただ驚くばかりだった。後に、世界各地を訪れ、ごく普通なことだと思えるようになったが・・・ちょっとしたカルチャーショック。
ここは熱帯の陽射しが強力だった。とはいえ、風がよく吹くので、日陰に入れば気持ちがいい。私の感覚では、東京の夏よりもはるかにしのぎやすかったように記憶している。
街の感じは、表通りは比較的綺麗だが、路地に入るとちょっと気になるところもあったが、まあまあの感じだった。
スリナムでの生活も少し慣れてきた頃、あと数ヶ月もホテル暮らしも大変だと言うことで一軒家を借りることにした。新興住宅街といったところだが、街へも歩いていけるところで、結局4ヶ月間暮らした。
そんな頃、いろいろな情報も入ってきて、この国にも日本の大使館があり、ホテルの一室に大使と現地雇いの人が居る程度の大使館だったが、顔を出してくださいとお誘いがあった。
また、ここの港は大西洋のマグロの遠洋漁業の拠点になっていて、日本の漁船も沢山入港していた。そんなある日、商社の人の紹介で、漁船に乗っていたがこの地に住んでいるというので、その人を訪ねた。すると、思いがけずマグロの刺身をご馳走してくれると言う。久々の醤油、わさび、そしてマグロの刺身は、忘れられない味となった。
滞在期間が長かったので、たまには日本で待っている妻に国際電話をかけたいと思い、客先のスタッフに話すと、交換機室に連れていって、そこのスタッフに紹介してくれて、日本に電話をしたいので、と言うと、室内の試験用の電話機を使ってかけていいよと言ってくれた。その後も何回も国際電話をかけさせてくれた。もちろん課金はなしのただ電話だ。感謝感謝。
トリニダードトバゴ
ところが、最初にケチが付くとツキは落ちるようだ。またまたトラブル発生。スリナム航空機がトリニダードトバゴのポートオブスペインの空港に着陸して、トランジットのために入国審査に行き、乗り継ぎ便名を言うと、その便なら今あそこへ飛んでいく飛行機だよと言う。ええっ!行っちゃった? どうしよう?
あたふたとしていると、同じ飛行機に乗ってきた日本人が声をかけてくれた。その人は大使館の人で、じゃあ一緒に大使館へ行きましょうと言ってくれた。
航空会社のカウンターで、事情を話し次のニューヨーク便を聞くと、今夜11時頃の便があるのでキャンセル待ちで乗れるかも知れないから、その頃来てくれと言う。
一応、飛行機の目処はついたので、大使館の人とトリニダードトバゴの日本大使館へ行き、しばらくいろいろな話しをして昼近くになったので、近くのホテルを予約してくれた。ホテルに行き昼食を済ませると、今朝早くからいろいろなトラブル続きで疲れが出てきたのか眠くなってきた。どうせ、8時か9時には空港に行かなければならないのだから、それまで休むことにした。
夜8時頃ホテルを出て、空港に行くと、ニューヨークは雪で機材繰りで遅れていると言う。ええっ??、まだ11月末だというのに、もう雪が…それほど時間が経ってしまったのか?と、何だか浦島太郎の気分になってしまった。
それでも、何とか運良く席がとれたので、ホッとした。そこで、翌日のニューヨーク〜東京の便を確認すると、これもOK。やっと帰れることになった。
トリニダードトバゴは、あたふたとしていて、漠然と昔のヨーロッパ調の建物が多く建っていた感じで、
それほど印象に残っていない。
【現在のトリニダードトバゴ大使館。当時のはヨーロッパ調の建物だったような気がする??】
数時間のニューヨーク滞在だったが、ホテルの窓から外を見ると日陰や道路脇には雪が見えた。もう、そんな季節かと、少し長かったスリナム生活を思い出した。
1979年11月25日、12時日本へ向けてニューヨークのJ.F.ケネディ空港を発った。