1月の風景…自然の芸術
1月、新しい年がやってきた。新年になったからといって、特段風景が変わる訳でもなく、今まであった風景があり、そこへ人間の手が加わって変わっていく風景があり、自然の力によって、あるいは長い間の風化などによって変わっていく風景がある。
風景には、何気なく毎日見ているものがあり、何にも変わっていないと思っていても、ある日あれっ?何か違うぞ!ということがある。風景とはそんなものだったり、都心などの開発が進んでいる所では、見る見るうちに風景が変わっていくことが分かる。
新年になって、気がついたことに、ずいぶん日が延びたことだ。何気なく夕方外を見て、明るいな、なんて気がつく。
街に出て歩いて見た。冬枯れした街並み。冬枯れした樹木。人間も、こんな季節は、どちらかといえば冬枯れしている感じだ。人間の目には、冬枯れしているように見えている街路樹や道端の雑草などの植物は、冬の間は休んでいて、少しずつ暖かさを増してくる春に向かって、花開く時期を、新たな芽吹きのチャンスをを虎視眈々とうかがっている。
また、一日の風景は、日の出から日没まで良く見ている風景だ。
新年の日の出を眺める。
日の出が近づくと東の地上近くの辺りが、明るくなり始め、薄っすら赤みを帯びてくる。
その色は徐々に黄色っぽかったりオレンジ色が混じったりした赤色に変わってきて、やがて空が濃い赤に変わり地平線に太陽が出始める。太陽は赤から明るい白黄色になり青空に輝き始める。
太陽の高度が未だ低く、辺りに光が行き届かないうちは、地平線上に並ぶ建物や木々あらゆるものは、バックライトに浮かび上がる影絵のようだ。
やがて、太陽が頭上に来れば、明るく地上全てを照らし出す。真っ白な富士の高嶺を浮かび上がらせ、長く横たわる丹沢山塊もくっきり見えてくる。
そして、夕暮れがやってくる。年末ごろは、我が家から見てちょうど富士山の頂上付近に太陽が輝きながら沈んでいった。
まるで指輪につけたダイヤモンドのような…
朝日のときはダイヤモンド富士などと言われているようだが、夕暮れは何と呼ぼう。
ただ、新年になってからは、太陽が沈む位置が富士山の裾野へ移ってしまい、ダイヤモンドリングと言う訳にはいかない。
夕闇が迫ってくると、地上付近は名残の茜色に染まり、徐々に天空へ目を移していくと白っぽい青空から藍青色・群青色へ暗青色へ変わって行き、そこに星が輝き始める。
こんな、一日の風景にもその日、その日で確実に違う風景がある。
まだ、小学校に入る前くらいの記憶だが、昔の路面電車は、道路の上空に張り巡らされた架線が沢山あり、その下を当時は確か黄色い車両が都内のあちこちを走っていた。よく見たのは、上野駅の前を通り、今の荒川線終点の三ノ輪橋近くを通る昭和通だった。
今の車両は白と緑色の車両がほとんどだが、中には昔風の黄色地に青帯のカラーリングをした車両も1両走っている。また、たまには昭和初期の東京市電をイメージした車両も走っている。
こんな時代だから、たまにはのんびりと、こういう電車に乗って静かな雑司が谷辺りで下車して、鬼子母神界隈を歩いて見るのもいいかも知れない。
今は、移動手段としては車や電車など重宝だが、歩いて見るといろいろな面白いものが見えてくる。
こんなところに...、えっ これなあ〜に?...、へえ こんなに綺麗な...といった、自然が成すものや、人工物でも見る人のその時々の気持ちや感性のあり方、その時季によって見え方が違うものもあるだろう。如何様にも見えてくるものもあるだろう。そんなのが自然の芸術だ。
また、見た風景からは、それに繋がるたくさんの思い出がよみがえってくるものだ。
風景とはそんなものなんだろう。
【都電荒川線・三ノ輪橋行】