さて、本堂へ行ってみると前立本尊を見ようとする人たちが列を作って待っている。回向柱はどうかと見れば、これも長い列が出来ている。やっぱり回向柱に触ることも出来ないかと、列の最後尾を追っていくと、意外にも短い?

山門(三門)の階段が最後尾だった。とりあえず並んでみると、思ったよりも早く前に進む。30分くらいは仕方ないかと思っていたが、早かった。15分くらいで回向柱に到達。

飯綱に別れを告げて、市内へ向かう。途中、善光寺裏山の遊覧道路から市街地を眺めると、善光寺辺りが空いてきているようだ。
駐車場の辺りも車列が出来ていない。ひょっとして、駐車できるかもしれない?

すぐにコース変更、善光寺の真裏へ通じる道路に出てツバメ池脇の駐車場へ滑り込んだ。

おお!ようやく御開帳に行けるぞ!

さて、戸隠のお別れに、そばを買っていこう。大久保の茶屋で生そばを買った。いつもなら、ここでそばを食し舌鼓でも打っているのだけれど、今回はパス。

今夜のお宿は、実家なので、ちょっと小屋の様子を見ていかなければいけない。

山桜も終わったようだ。ここの敷地内に何本かのサクラを数年前に植えた。でも冬の間の雪で折れてしまい、今は2本だけ生長している。様子を見ると今年初めて花をつけたようだ。

他にも、ニリンソウを植えたのが花を咲かせていた。
敷地内には、ワラビも沢山生えている。今回は時間が無かったので、採るのはやめた。
東京では4月に咲いていたヒトリシズカがあちこちで花を咲かせていた。フデリンドウの花が見えなかったが、もう終わってしまったのだろうか。ここでは、これからベニバナイチヤクソウが沢山花を咲かせる。

中社から、今度はそば畑へ。夏と秋にはそばの白や赤い花をつけるそば畑に、今は菜の花が、まっ黄色に咲き乱れていた。この畑は戸隠のポスター写真になる場所だ。三段になった畑の二段目と一番上ではアルプス展望台で、写真のアングルにも絶好だ。
男性的な戸隠山を背景に、まっ黄色の菜の花畑や新緑の林と、まだ雪を冠した北アルプス。いずれのビューもすばらしく、誰でも名カメラマンにしてくれそうだ。

戸隠神社中社へ行くと、昨年もそうだったが社殿の中で舞を踊っていた。

天岩戸伝説の舞だったかな?この神社も最近は、コマーシャリズムに踊らされているのか、拝観料?何かしらの料金を取って見せていた。
境内の道を修学旅行と思しき、中学生らしき生徒の列が続いていた。最近は、こんな山の中へ修学旅行が来るのだ。

長野インターを降りると、ちょうど12時、お昼を食べて市内へ向かい善光寺周辺へ行くと県外ナンバーの車が多い。善光寺の駐車場は4つほどあるが、どこへ行っても入り口から車道に長い入場待ちの列が出来ている。噂には聞いていたが、平日だからと思っていたのが甘かった。これじゃあ回向柱に触るどころの話ではないと、・・・軟弱者の私は、すぐに行き先変更。でも、一緒に行った娘が、ちょっと不満そう?少しその辺りの駐車場を見たが、やっぱり満車状態。仕方ない。それなら戸隠神社へ行きたいというので、急遽戸隠へ向かう。昨年の11月以来だから約半年、しばらくぶりだ。。

善光寺の裏山を登り、飯綱へ。この辺りは、ようやくサクラが終わったばかりのようで、まだ枝垂れサクラや八重が見事に咲いていた。5月半ば、さすがに飯綱山には雪は見えない。ウグイスの鳴き声が聞こえ始めた。
バードラインを走り、大久保の茶屋を過ぎて、戸隠へ入ると以前は絶景の北アルプス鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳のビューポイントだったが、近頃そこに蕎麦屋が出来てしまいちょっと惜しい場所。でも車窓からも見えるのでガマンガマン。

宝光社から鏡池へ向かう。連休中はこの道路一方通行になっていたそうだが、今はどちらからでも行ける。昨年の雪解け時期に、この道路へ入り中社へ抜けようとしたとき、最後の最後県道へ出ようとしたところで、通せんぼ。もう一度宝光社まで戻り中社へ・・・なんてことを思い出しながら、鏡池到着。

鏡池に映る戸隠山?残念ながらと言うか、この時間では絶対と言うほど見れない。やっぱり早朝の風が無いときだろう。池の淵から戸隠山麓にかけては、鮮やかな明るい緑色の樹木で覆われて、茶色と紺色の山肌では、柔らかさとゴツゴツ感がうかがわれる。

所用があって、長野へ出かけた。
長野と言えば、今、善光寺は七年に一度の御開帳が開かれている。今月末までだ。それならば行ってみなければ、この次は、また行けるかどうか分からない。そんな行きついでに善光寺、飯綱、戸隠と駆け足で回ってきた。
所要は、翌日なのでゆっくり出かけた。9時に家を出て関越道を走る。途中富士山をはじめ秩父、赤城、榛名、妙義遠く日光連山、雪を頂いた上越の山々、浅間山が妙にはっきり見えた。遠くの山並みは、総じて紺色っぽく見えるときが多いのに、この日は樹木の陰影が判るように見えて不思議だった。

群馬県と長野県の県境のトンネルを抜けると、佐久平が広がりその彼方に、まだ多くの雪を冠して北アルプスが長く横たわっていた。この日は、ここでも珍しく北は白馬岳から南は乗鞍岳までが一望できた。槍ヶ岳の槍の穂も鋭く尖って空に突き立てていた。

序でに、駆け足 善光寺参り紀行

鏡池を後にして、森林植物園へ向かった。緑が池の畔では、終わったばかりのサクラが、まだ赤いガクを残していて花をつけているようだった。周囲の新緑のカラマツ林からは、たくさんの野鳥の鳴き声が聞こえてきていた。
池をぐるっと一回りして、ちょっと時期が遅かったミズバショウも見えたしカタクリの群生も目にしたので、一応春の戸隠は良しとしよう。

御開帳期間中は、本堂前に回向柱が建立され、高いところから白い善の綱が結ばれていて、前立本尊中央の阿弥陀如来の右手に結ばれているらしい。この回向柱に触れることは、前立本尊に触れるのと同じことであり、ありがたい結縁が生まれ、その功徳ははかりしれとのことだ。なので、今回は回向柱に触り、願い事を祈った。

その後、これも並んで待って、本堂内で御印文頂戴という事をしてもらった。
これは、御本尊の分身ともいわれる宝印を頭におしいただくことで、極楽往生の御利益が得られるという、とてもありがたいものだ。
一人ずつ僧侶の前に進むと、頭の高さに座っている僧侶が、頭に宝印を押し付け南無阿弥陀仏と唱えてくれる。

善光寺本堂には、秘仏の御本尊一光三尊阿弥陀如来が安置されているが、御本尊の御身代わりとして前立本尊が造られ、拝されるようになったそうだ。
この前立本尊は、ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、善光寺独特の一光三尊阿弥陀如来となっているが、ポスター写真でしか見ていない。普段は御宝庫に安置されていて、七年に一度の御開帳の時だけ、特別にお拝むことが出来るそうだ。その行列は長くて、並んでまでは見る気がしなかった。

大回向柱

松代藩が現在の本堂建立の際、普請奉行にあたったというご縁から、毎回松代町から「回向柱(えこうばしら)」が奉納され、本堂前に立てられます。高さ10メートルの回向柱には前立本尊様の右の御手に結ばれた金糸が善の綱となって結ばれ、柱に触れる人々にみ仏のお慈悲を伝えてくれます。

(善光寺御開帳奉賛会HPから転載させていただきました)

善光寺の概要    

信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来様を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております。

 『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました。

草創期を語る史料は残念ながら善光寺には残っていません。しかし、発掘史料や史書などから、いにしえの善光寺の姿をうかがい知ることはできます。大正十三年と昭和二十七年には境内地から白鳳時代の川原寺様式を持つ瓦が発見され、7世紀後半頃にはかなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかってきました。平安後期・12世紀後半に編集された『伊呂波字類抄』は、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として中央にも知られていたことを示す記事を伝えています。また、11世紀前半は、京の貴族を中心に浄土信仰が盛んになった時期でもありました。こうした浄土教の隆盛とともに、善光寺聖と呼ばれる民間僧が本尊のご分身仏を背負い、縁起を唱導して、全国各地を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めました。また、信仰の拡大に伴い、ご分身仏が作られるようになりました。

 鎌倉時代になると、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行いました。善光寺信仰が広まるにつれ、全国各地には新善光寺が建立され、御本尊の模刻像が多く造られました。現在の前立御本尊はこの鎌倉時代の作です。鎌倉時代には多くの高僧の帰依も受けました。東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源をはじめ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人、時宗の宗祖・一遍上人なども善光寺に参拝し、ご仏徳を深く心底に感得されました。

 戦国時代に入ると、善光寺平では武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を巡り川中島の合戦を繰り広げました。弘治元年(1555年)、武田信玄は御本尊様や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移しました。その武田家が織田・徳川連合軍に敗れると、御本尊様は織田家、徳川家の祀るところとなり、最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊としてお奉りいたしました。そして、秀吉の死の直前、如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになり、それによって42年振りに善光寺にお帰りになられました。


戦乱の時代に巻き込まれ、荒廃を余儀なくされましたが、江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げて参りました。泰平の世が続き、一生に一度は善光寺詣りをと、多くの人々が参詣されました。念仏を唱えて一心に祈る者を皆極楽浄土に導いて下さると、一貫して男女平等の救済を説く寺院として知られていました。そのため、女性の参拝者が多いことが善光寺詣りの特徴でした。当時の参拝の様子を描いた絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれています。江戸時代に入ってからも火災に遭いましたが、御本尊様の分身仏である前立御本尊を奉じて全国各地を巡る「出開帳」によって集められました浄財をもって、宝永四年(1707年)には現在の本堂を落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整えられました。

 近代を迎え、交通網の発達とともに参拝者は増加し、今日では600万人もの方々がこの地を訪れます。平成十年(1998年)2月に行われた長野冬季オリンピックの開会式では、善光寺梵鐘が世界平和の願いを込めて全世界に向けて響き渡りました。

以下に善光寺の公式HPから善光寺の概要を転載させていただきました。
  【信州善光寺】 公式ウェブサイト トップページ

牛に引かれて善光寺参り、の謂れは強欲で無信心な、ばあ様が川で洗濯をしているところへ牛が現れて、洗濯をしていた白い布を角にひっかけて走り出した。逃げるその牛を追っかけて善光寺まで来てしまい、信心に目覚めるという話しで、「他の事に誘われて偶然良い方に導かれる」と言うことらしい。

そんな事からか、私が子どものころは、本堂の脇に本当の牛が飼われていた。白く背中にコブのあるインド牛と言われていたような覚えがある。その後、本物の牛から作り物の牛になり、今ではその姿も無いのではないだろうか。

「遠くとも一度は詣れ善光寺」といわれ、誰でもお参りできる無宗派の寺、善光寺。宗派にこだわらない開放的で細かいことは気にしない寛容の精神に溢れた性格が善光寺だ。そんな風でもあるので女性信者がきわめて多いのだそうだ。

まだ、お参りに行ったことがない方もぜひお出かけください。

実家は浄土宗なのでちょうど同じだ。

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2009 May.23 tama
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