20代、あの頃は、ほとんど毎週のように山へ出かけていた。
そんなに先鋭的な山岳会ではなかったが、ロッククライミングを中心とした
オールラウンドの山行を行っていた。
当時、同年代会員が多く、ちょっと誘って、次はどこどこの山へ行こうと、話しが
まとまっては、2〜3人のパーティでよく出かけていった。
白馬岳雪崩遭難
今冬は、山での雪崩遭難事故のニュースがよく報じられた。11月に起きた十勝岳連峰の雪崩、年末年始の北アルプス槍平小屋付近で1日未明に4人の命を奪った雪崩事故。そんな事故のニュースを聞いて、山へ行っていた頃のことを思い出した。
そのころ所属山岳会の会山行で起きた、白馬岳雪崩遭難事故のことを、当時のメモと記憶をたどって綴ってみたくなった。
もう、昔の話だけれど・・・同年代のいつも一緒に山へ行っていた友が2人も帰らぬ人となった遭難事故だったからだ…。
遭難事故は、起きてしまえば各方面からいろいろな批判の声が挙がる。しかし、当事者や関係者は過去の経験、記録、気象、各人の器量など総合してこれなら大丈夫だろう、と万全を期して出かけるのだが、自然が相手であり我々ちっぽけな人間の想像を絶する自然現象は、何時起こっても不思議ではない。
1975年3月22日、この日は確か土曜日、前日が秋分の日で休日だったので出勤だった。9時の始業から間もなく電話口に呼ばれた「雪谷山岳会の佐伯です。白馬で雪崩にやられたので出動願います」さっと血の気の引くのを感じた。あの時の感じは今も忘れない。冬山装備で会の本部へ集合してくれ、という。上司にその旨を話し早退して装備を整えて、会本部へ行くとその時点で集まったのは、私を含め数人だった。簡単な状況説明があったが、会本部といっても、三々五々会員が集まってくる状態で、本部としての組織的な動きにはなっていなかったような記憶がある。ベテランリーダー3人が集まったので、そのうちの2人と私の3人が、まず第一陣として11時30分発の列車に乗るべく新宿駅へ向った。
遭難の模様は、あたふたしていたり、留守本部で現地からの第一報を受けた人が山行内容を解っていなかったので、その時点で現地で起きていた遭難と山行行程をつき合せて状況を想定するのがやっとであり、逆に現地の警察へ問い合わせる作業等をしていて詳細は解らずのまま、ただ雪崩遭難事故が発生して、4名中2名は雪に埋まったままであるという状況での出発だった。列車の中では、あれこれ思いをめぐらしどこで雪崩が発生したのだろう?そんな場所はあったか?など話しながらも彼らの安否が気がかりで仕方なく、何とも言い難い気の重い車中であった…そんな記憶がある。
この山行計画は、次のようなものだった。
目的地:北アルプス 白馬岳主稜登山
期間:1975年3月21日〜24日 20日:新宿夜行発
メンバー:チーフリーダー:永山敦、 サブリーダー・気象:厚木正、装備・記録:柿本克夫、食料:浅山和夫
行動計画:21日:猿倉小屋泊 22、23、24日:猿倉小屋⇒馬尻⇒白馬主稜⇒白馬岳⇒杓子岳⇒小日向尾根⇒猿倉小屋
目的:中堅会員によって計画された積雪期の雪稜登攀技術の習得。この山行を通して得た技術体験を会全体のものとして、
今後の山行に役立て、飛躍していく為のステップにしたい。
遭難した彼ら4名中、生存した2名の者が後から語った、彼らの実際の行動状況は次のようなものだった。
3月19日、彼ら4名は最後のミーティングを行って、20日、会員の何人かがホームまで見送り、23時30分新宿発の夜行列車の人となった。
21日、6時15分白馬駅着、登山カードを記入して朝食後、7時35分タクシーで二股へ向った。山支度をして8時15分二股発。11時10分猿倉小屋着、猿倉ではかなりの積雪があり小屋へは3階の窓から入った。翌日のために御殿場付近まで偵察に出かけた。天候は良好で眩しくサングラスが必要だった。トレースはついていて雪はかなり締まっていた。小屋に戻り夕食をとりながら、翌日のルートを確認し17時就寝。
3月22日
0時30分起床、外は風もなくしんしんと雪が降っていたので、かなりの積雪を予想していた。
2時30分朝食を済ませ猿倉小屋を出発した。浅山・柿本・永山・厚木の順で歩き始めた。降雪は続いていたが、風はなく膝くらいまでの積雪。
3時、しばらく歩いたが、膝までの積雪のためワカンを着け、ラッセルのため柿本・永山・厚木・浅山のオーダーに変わった。
3時15分、前日、偵察で通った夏道で猿倉台地下部をトラバース中、浅山が「雪崩の音だ!」と叫んだ。一瞬のうちに全員が流された。
柿本:「雪の圧力により雪中を流された。気がつくと仰向けになって右手、両足が全然動かず。息が苦しくて左手で頭上の雪を掃うと呼吸が
楽になり、ヘッドランプの薄明かりの中に目の前の大木が浮かんで見えた。何度か叫ぶと厚木の声が聞こえた」
厚木:「新雪が足元を流れ、身体が転がるのに気付いた。まず、泳ぐこと、鼻口に空気穴を作るのに心がけた。あまり流された覚え無し。体
に痛みはない。流れが止まり、上を向いているのか下を向いているのか解らず、必死にもがいた。もがくほどに雪が口に入り呼吸が
苦しくなった。雪を吐き出しながらも必死にもがき続けるが、苦しくなって諦めた。もう一度と思い、あがくと雪面に顔が出た。それと同
時に両手が出たので、口の中の雪を吐き出す。体は全然動かぬため、大声で助けを求めた。三四度叫ぶと柿本の声が聞こえた。」
3時25分
柿本:「左手だけで、まず頭上の雪を押しのけて顔をだした。ザックは背負っていたが、ベルトが緩く左肩がはずれた。両足は全然動かな
い。右手もピッケルバンドがついていて動かなかった。左手で腹の上の雪を掃い、ピッケルバンドをはずし両手で脚の雪をどけて自力
で脱出。」
厚木:「両手は動くが、背中とザックの間に雪が詰まって体が動かない。両手で届く範囲の雪を掻くが体の自由はきかない。何度か柿本と話
す。柿本が脱出できそうなので、柿本の脱出を待つ。その間にも雪が顔に積もるので、それを落とすだけで精一杯。柿本が脱出し、
ザックを緩めてもらい脱出しザック、ピッケルを掘り出す。近くの木に柿本のオーバー手袋を目印に残し、永山、浅山を呼ぶが返答無
し。辺りを掘ったりピッケルを挿して探す。」
4時10分
「捜索していたが、再び雪崩が出るのではないかと不安になり、上部に直登し2人でアンザイレンして大木にビレーをとった。体が震え、我々は生きているという喜びと雪崩の恐怖、永山と浅山の生死に不安をもった。降雪は続いていたので2人でツエルトを被りタバコを喫った。」
4時15分
「厚木、上部に人の声を聞き。ツエルトを出る。猿倉台地上部に四つのヘッドランプを確認、捜索協力を依頼した。」
大阪山屋山岳会とのやり取り。
厚木「東京雪谷山岳会ですが、今雪崩にやられ2名が、まだ埋まっていると思われますのでご協力お願いします。」
大阪山屋「今、そこまで行きますから。」
厚木「東京雪谷山岳会の厚木です。」
大阪山屋「私が質問する形式にしますので、それに答えてください。」
厚木「ええ、そうしてください。それの方が正確ですから。」
大阪山屋「お宅の会の名前は?」
厚木「東京都岳連雪谷山岳会です」
大阪山屋「メンバーは?」
厚木「チーフリーダー:永山敦、 サブリーダー・:厚木正、柿本克夫、浅山和夫の4名です」
大阪山屋「緊急連絡先は?」
厚木「東京03-000−1234 矢萩宅です」
大阪山屋「それでは確かめます。」
4時30分、大阪山屋山岳会の2名が二股へ連絡の為下山」
大阪山屋「とにかく、明るくなるまで待ちましょう」
厚木「分かりました」ツエルトを4人で被る。
4時50分、この頃から明るくなり始めたので、大阪山屋山岳会の2名の協力を得て捜索をした。」
5時、風がしだいに吹いてきた。
9時、二股へ連絡に下った大阪山屋山岳会の2名が戻り、6名で捜索。
11時、風が強く、吹雪となった。
14時30分、捜索を打ち切る。
14時40分、捜索を打ち切って、大阪山屋山岳会とともに猿倉小屋へ戻る途中、白馬遭難対策協議会の捜索隊5名に出会い、
厚木が現場へ案内。
15時、捜索隊が現場にて捜索開始。
15時25分。永山、浅山が遺体にて発見される。遺体には、まだ温もりが残っていたと言う。遺体は、現場付近の大木の間に
アンザイレンして安置。
16時30分、捜索隊現場から猿倉小屋へ戻る。
生々しいやり取りがなされた。
最後に
登山には、危険がいつもついて回るもので、危険や困難から脱出する手段として、登山技術や登山の知識がある。しかし、人間の持っている自然に対する知識は、実に不完全なもので、特に雪崩についての研究は遅れているように思われる。学術的な面でも昔から言われている域からあまり脱してはいない様に見受けられる。特に、最近の温暖化や異常気象などの影響により気象全般に不確実性が高まっているように思われる。
我々が登山において、雪の斜面を通過する場合、前以って雪崩に対する危険を予知することは非常に難しい。一般的には、日照時、降雪中、降雪後、特に激しい降雪中と直後一日の行動を出来るだけ避ければ、かなりの確立で雪崩遭難は減るといわれている。
しかし、この雪崩遭難のように「午前2時30分で、一般にはこの時間は、まだ雪が締まっているはず」の安全とされる時間帯でも、条件次第では起こりえる。また、最近の槍平小屋付近の幕営地での雪崩も深夜に起こって、これは急激な大量降雪のためだったようだ。
この白馬での雪崩による遭難事故は、最も発生しやすいと言われている気圧配置、降雪中であったが、雪崩が発生した現場が過去に雪崩が発生したことがないと言われていた場所であったこと。前日に偵察で通っていたため問題ないと判断していることなどから、危険に対する予知ができなくなっていた。
遭難現場は、猿倉台地を横切って通る登山道で夏道と同じ所を通過していて、前日偵察で通ったときはしっかりした踏み後がついていたという安心感があったし、それより雪崩の危険な場所は、大雪渓末端の馬尻辺りだと予想していて、天候によって行くか引き返すかは、その危険と思われる箇所前で判断しようと考えていたと証言していた。
こうしてみると、そこかしこに危険なサインが見て取れるが、彼らは突き進んでいった。これらは何故かと考えると、彼らの前年山行歴をみると、平均山行日数は56日、少ない方で44日、多い方は68日で会員のなかでも一番多かった。しかし、春夏秋冬の合宿や山行はほぼ良い天候に恵まれ、目的ルートを難無く登ってしまった。特にこの年の1月に行った冬合宿では、天候に恵まれ冬山の恐ろしさや雪の恐ろしさを知らずに登攀できてしまっていた。
そんなことから、行けば登れる。天候が悪くなっても何とかなるという思い込みが、彼らの心の中に「勢い」という形になっていたのではないだろうか。これらのことが、前述したが「メンバーについては、同年代で若かったため、リーダーシップは絶対的なものではなく、メンバーの意見をまとめる役といった感じ」「難を言えば、仲良しグループになってしまい、後述する天候判断や前進中止の判断を誤っている原因になったように思われる。」こんなことからブレーキ役になる人間がいなかったことが不幸であった。
これらを見通していた先輩もいて、前年最後の会合で注意喚起の言葉を述べていた。
「今年の山行成果は、素晴らしかった。しかし天候に恵まれたから登れたのであって決して自分達の実力で登ったのではない。ある程度の技術があれば誰でも登れたのだ。この反動は必ずある。自然はそれほど甘くない。天候が悪いときに初めて困難に直面するだろう。天候に恵まれた山行は、ついていただけで、長期的な目でみれば不幸なことだ。山での本当の実力を左右するのは悪天候の中での行動と判断である。今年は、この訓練にはならなかったことを考え、最悪のケースを想定して行動してもらいたい。」
そんな矢先の遭難事故だった。
我々は、もっと山に対する慎重さと、基本に戻って謙虚さが必要であることを知らされた。そんな遭難事故であった。
注)本文は、実際の遭難事故を当時の記録メモと記憶でなるべく忠実に、また自分の考えを交えて書いたが、山岳会名称、固有名詞は仮名とした。
1975年3月当時の気圧配置