10月、朝夕の冷気が草の葉に露となり、草の葉に宿った露の中に無数の朝陽が輝く頃だ。

北の国や山里からは紅葉の便りが聞かれる季節。都会では、ようやく朝夕はしのぎ易くなってきたが、日中はまだまだ気温は上がる。しかし、都市公園など緑が多い場所の木陰では、爽快な季節だ。
そんな公園を歩くと、サクラは色ついた葉っぱが多く、落葉も始まっている。でも、多くの樹木は、まだ緑に茂った葉っぱを沢山つけている。
寒露の頃 光と輝き

早朝の公園へ出かけた。森の下草は夜露がびっしりついていて、そんな中を普通の布製の靴で歩こうものなら、すぐにびしょぬれになってしまい、この季節では冷たい思いを強いられてしまう。

朝露が残る森の中は、たぶん、空気中にも水蒸気が多く含まれているのだろうが、今頃は気温が低いからなのか、それほど湿気があるような感じを受けない。しかし、そこへ太陽の光りが射し込んでくると、その水蒸気の正体を暴いてしまう。

その正体を暴き出す太陽の光りといっても、ただ射し込むだけでは正体を暴き出すことはできない。
森の中を見たときに、密集した樹木や葉っぱの隙間を通して射し込む光りだ。

全体に射し込む光りは、一様に明るく照らし出すだけで、判別能力はないのだ。樹木や葉っぱの隙間を通して射し込む光りは、スポットライトのように、光りが射し込んでいる部分と葉陰や樹木で遮られている部分のコントラストにより、水蒸気の正体を暴き、私たちの目にはっきりと見せてくれる。

森の下草は何だろう。朝露に光が当たりキラキラ輝いていた。

やがて、陽が高くなり、陽の当たり方が変わってきた。光の射し込みかたが変わってくると、森の感じも変わってきて、全体に明るさを増してくる。

それは、いつも見ている普通の森の姿だった。

足元のたくさん露を含んでいた雑草の朝露も乾き始めると、大気中の水蒸気も減ってくるから、全体が明るく、すっきりした森になってくるのだろう。

やはり、この季節の朝夕の冷気により、雑草たちに宿った無数の露と朝陽との共演のドラマだった。


何年か前、11月に入ってからか、それより前だったか後だったかは覚えていないけれど、この公園に来て、色づいた景色を見て歩いた。

いつもは、水辺のハンノキやメタセコイアの大木の間を廻り、池をぐるっと回る木道に沿って歩くのだが、この日は水辺を見下ろすように、一段高いところをやはりぐるっと回る歩道を歩いていた。

一番奥まった所に、野鳥の林があり何回か行ったことのある場所だったけれど、そこにあった楓が、物の見事な紅葉に染まっている光景を見た。

よくカレンダーなどの写真では、鮮やかに朱に染まった紅葉を目にしたり、実際にもきれいな紅葉はたくさん見たはずではあったが、鮮やかで印象に残った紅葉を目にしたのは、あのときが初めてだったような気がする。

この日も、特にその場所へ行こうとしたわけではなかったが、カワセミを見たいと思い出かけてみたが、カワセミがなかなか姿を見せてくれないので、池の周りを歩き、さらに高台の歩道を歩いた。

10月とは言え、この辺りは、まだまだ樹木が色づいたり、落葉には早すぎるようで葉っぱは鬱蒼と茂っている。日中にしては、やや薄暗い感じさえする。

そんな一番奥まった所にある、野鳥の林へ差し掛かると、ハッとするほど見事なグラデーション。
樹木の幹は黒く、折り重なる葉っぱは暗緑に、まだまだ明るい秋の陽射しを透かしてしまう葉っぱは、濃い緑・黄緑・ハレーションを起こしてしまうほどに輝くように見せる、何という色なんだろう。

そう、ここは、もう少しすれば鮮やかな紅葉が始まる。

この場所へ来て、緑の森と陽射しが織り成すグラデーションを目にしたとき、数年前のあの鮮やかな紅葉へ思考回路がスイッチした。

あれは、今と同じように楓の葉っぱに、もう冬の陽射しになった光が射し込み、あの鮮やかな紅葉を見せていたのだろう。

鮮やかな紅葉には、タイミングというものがあるのではないだろうか。
今頃は、太陽が秋分点を通り過ぎ、冬至すなわち南回帰線へ向かっていく途中で、露が冷気によって凍りそうになるころが寒露。

更に太陽黄経が南へ行くころには、露が冷気によって霜となって降り始める霜降。
この頃が、気温の変化とともに、太陽からの陽射しの具合が、葉っぱの色づくプロセスとしてのタイミングがいい時期なのだろう。

天気や気温など自然の力が、大きく左右していることを感じる。

今年見られるだろう、ここの紅葉は今年だけのもので、あの日見た紅葉とは違ったものだろう。似てはいるだろうが・・・・自然界には、全く同じことは無いはずだし、あってほしくもない。

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2008 Oct.1. tama
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