そんな朝だったが、裏山が騒がしい。鳥の鳴き声にしては聞きなれない音がするので行ってみた。山の麓の木の枝が大きく揺れている。山の木場に生えているカキの木にサルが2匹、カキを食べていた。私の姿を見つけたら、スルスルっと木を下りて山の茂みへ逃げ込んだ。その辺りから鳴き声と、更に何匹かが様子を伺っている感じで、また木の枝が大きく揺さぶられた。

更に彼らは、近くのりんご畑を狙っているようで、群れの中から斥候?か、1匹がりんご畑のすぐ脇まで行って、何やら仲間に鳴き声で合図をしているようだった。

サルは、猿蟹合戦でも描かれていたが、手当たり次第食い散らかす。取っては口にして全部食わないうちに次のを・・という風だから被害は大きい。それに彼らは、興奮してか?枝を揺するので、実の熟れたりんごやカキはパラパラと落ちてしまうから始末に悪い。

【りんご畑の周囲は青い網と電線を張り巡らせ対策をしている。】

【実家から菅平方面。山間部の集落にも陽が当たり始めるが、午後には陽が当たらなくなり、日照時間が短い季節になる。最奥の山並みの右、最高峰が保基谷岳】

【実家から西方、長野市街・北アルプス方向。霧というより靄のようだ。時間とともにすっきりしてくる。】

夏の夕立は、ほとんど東の菅平方面の山から白いカーテンのようにやって来た。保科の一番高い山・保基谷岳の方からだ。

清水寺の裏山・太郎山はいつも眺めていた。登ってみようと思っていたが、あの頃は今のような登山道は無かったように思う。今度いつか登ってみたい。


ギザギザした峰々を大空に突き立てる北アルプスの後立山の山々は、子供心に夢を抱かせてくれた。その後、高嶺に立ったがその向こうは、はたして、峰々が続き、日本海へ…そして世界へ繋がっていた。

山国、信州・保科に生まれ、この地を離れ、もう何十年経ったのだろう。すぐ近くの山に囲まれた地で、かろうじて開けていた西の空を眺め、北アルプスの高嶺のあの向こうには何があるのだろうと、子供心によく考えていたものだ。

やがて、海外放送の受信に興味を持ち、短波ラジオを自作し、イギリスのBBC、イタリアのバチカン放送、エクアドルのキトから送られてくるアンデスの声、アメリカのボイスオブアメリカ、ラジオオーストラリアなどの放送を聴き、手紙を出して受信証明BCLカードを送られてくるのを楽しみに待っていたことを思い出す。その趣味がアマチュア無線へ繋がり、国内の九州、北海道の人たちと交信し、やはり交信証明のQSLカードを交換した。そのうちに沖縄とも交信できたが、その頃はまだ、日本へ復帰していなかったため、コールサインはアメリカのものであった。そして、交信範囲も韓国、オーストラリア、フィリピンなどアジアの国々からはじまり、ヨーロッパ、アフリカ、中南米と範囲が広がっていった。
そして、趣味が高じて通信の勉強をするべく、この地を出て、その後は子どもの頃、あの向こうには…を探すように海外へ行くようになった。世界各地をまわり、それでも帰国すれば、この山に囲まれた長野へ保科へ帰ってきた。
今でも、両親が居るから、兄貴やその家族が歓迎してくれるから、居心地がいい実家へ帰ってしまう。自然と文化がこの山国にたくさん詰まっている。
「故郷は遠くにありて想うもの…」と石川啄木が昔詠んでいたけれど…、その「故郷」って…、単に「土地」だけを著すのではないと…、私は決してそうではない…と思っている。 

保科氏(ほしなし)は、信濃国高井郡保科に発祥した土豪。戦国期に勃興し、江戸時代は大名として存続した武家。

幕末動乱の京都守護職として活躍した、会津藩主松平容保から遡ること八代前が、会津藩祖保科正之だ。会津藩は、徳川の血縁であった事から後に、松平姓に変わった。保科氏については、諏訪大祝の後胤行遠(すわおおほうりのこういんゆきとお)が保科に住し、地名を氏名とし保科姓を名乗った。行遠は、氏神である諏訪社を保科の一角に祀り、自らもそこに住んだことから保科郷が会津藩保科氏発祥の地とされた。
その後、保科氏は豪族として栄え、木曽義仲に従し横田河原の合戦で活躍し、義仲上洛にも従った。時代は移り15世紀中ごろ、村上氏の侵攻を受け伊那藤沢に移り、このことが保科氏の運命を大きく変えた。
高遠では、武田・徳川に従い保科正直が高遠城主になり、その子保科正光は二代将軍秀忠の子正之の養育を頼まれ、正之が成人して保科家の養子となった。三代将軍家光とは異母兄弟となるので信頼を得て、会津二十三万石の藩祖となった。

最近といっても、もう何年も前からサルがこの辺りにも出没するようになり、果樹などの被害が出ている。
子どもの頃を思い出せば、クマはよく出没していたけれど、サルは動物園に居るものだと思っていた。それでも野生動物と人間の間には、一線があって、これほど、馴れ馴れしく人里近くに出没することには驚いた。
実家でも、りんご畑の周囲は網と4段もの電線を張り巡らせ対策をしている。

これらの要因は、スギやカラマツなどの人工林が増え、広葉樹などの木の実が少なくなったり、今までは山の手入れをしていたが、それをしなくなり山が荒廃して木の実が少なくなった。
また、山際の田畑が過疎化や高齢化で荒廃し草木が生い茂り、手が加わらなくなり荒れた里山とそれに続く荒れた田畑の耕作放棄地は、人里との間にあった動物を寄せ付けない緩衝地帯をなくしてしまい、野生動物の人里への侵入路となってしまったようだ。
こんな山に囲まれた地である為、野生動物に出会う機会は多い。カモシカも姿を現すしムジナ(タヌキ)や、物置の中にはアオダイショウが居たり、ホタルやサワガニなんかも沢山居た。
次の朝もサルの群れが来るかと思い、前日と同じ時間に行ってみたが、その日は現れなかった。代わりにジョウビタキが姿を見せてくれた。

秋深まる、我が故郷・・・自然と文化

りんごの収穫作業を手伝いに信州の実家へ行って来た。
りんごの木は30本足らずの昔で言う三ちゃん農業的なものだが、久しぶりにりんごを収穫してみると、1本の木から以外に沢山のりんごがとれるので驚いた。りんごの種類はいろいろあるけれど、歯ごたえ、甘さ、酸味などの味わい、長持ちするなどから「ふじ」が一番美味しいりんごのような気がする。

信州へは、よく行っているが実家の周辺を歩き回ることはほとんどなかった。最近は観光の振興とかで、昔は何ともなく、ただそこの住民の中に溶け込んでいた施設や山などが脚光を浴びてきて、多くの人々の知るところとなり、今ではにぎやかに変わってきているようだ。

我が故郷は、長野県の県歌「信濃の国」にも歌われている善光寺平。千曲川に沿って広がる平野部と、それを取り巻くように山間部が位置する長野市の南東部にある。いくつもの河川が千曲川に流れ込むが、そんな河川の一つである保科川が造る扇状地が広がる扇の要に当たる、山に囲まれた地である。年間平均気温12.5℃と、さわやかな高原的気候に恵まれた我が故郷だ。

実家のすぐ近くには、皮膚病に効くという昔からある温泉と、私たちが小学校の頃、ボーリングで湧出した温泉の2つがある。また、長野市で、飯縄山に次いで2番目に高かったが、最近の合併でその高さが、たぶん?3番目になってしまった保基谷岳がある。頂上からの善光寺平や北信五岳の展望が素晴らしい太郎山や熊窪山など市民の気軽な登山が出来る山々もある。

その他にも、文化的には、保科氏の発祥の地(長野市若穂保科)だったり、ぼたんのお寺・清水寺(せいすいじ)などがある。今は、秋の実りの時。辺りには赤く熟したりんご畑が沢山ある。柿の黄色からオレンジ色、赤へ熟していく実も其処此処に見れる。

久しぶりに向かった故郷だが、長野市街地から故郷へは、千曲川と犀川が合流する辺りに架かる長さ約1kmの落合橋を渡る。この橋、昔は板の橋げたを並べた木橋で、大雨が降り増水すると流されたり、増水の直前に橋げたを取り除いてしまって不通になったりした。
また、バスで通過する時は、橋の袂で降ろされて空っぽのバスだけ渡って行き、その後を乗客は歩いて渡り、待っていたバスに乗った。そんな事を思い出しながら走った。
橋の真ん中辺りの信号機が赤になり、真正面を見れば、我が故郷の山々と保科川の扇状地が広がって居る風景が目に入ってきた。

山に向かって進むと、団地の脇を通り過ぎ、この地域唯一の信号機があり、この辺りから上方の地域と通り過ぎてきた団地を含んだ一帯が、その昔の保科村・・・これが我が故郷だ。
団地を過ぎると、両側からぐっと山が迫ってきて、保科川と県道が平行して山に向かって進む。この地域は、保科川の河岸段丘が地形を成している。現在の保科温泉がある台地から上信越自動車道が走っている辺りまで、距離4km、高低差250mにおよぶ扇状地が、南北の山系に挟まれて形成された。その形成された扇状地が、保科川の流れにより徐々に浸食され堆積土砂を削り取り、保科川と県道が通る辺りは低く、上方へ行くに従い両岸との高低差は大きくなった顕著な河岸段丘を形成した。はるか遠い時代から始まり、侵食は今でも続いている。

小学校の脇を県道から別れ、保科川を渡って左側の山際には、保科川と県道と平行した集落が細長くある。こちら側も道路と幅1.5mくらいの河川が平行して通っていて、その両側に人家が立ち並んでいる。その集落の中ほどに、子供の頃から慣れ親しんだ「通称、お観音さん、ぼたんのお寺」の清水寺(せいすいじ)がある。

今の時期は、清水寺裏の太郎山の中腹にある、観音堂へ続く石段の参道脇に、見事なもみじが真っ赤に紅葉している。黄色く黄葉しているもみじもあり、陽を透かして見れば更に美しく見える。

《清水寺(せいすいじ) 通称、保科のお観音さん、保科のぼたん園。
開創、天平14(742)年、行基が仏像を納めた草堂を建立したことにはじまる。延暦2年(801)坂上田村磨が直刀などを寄進し大同元年(806)京都清水寺の号を賜り建立。大正5年の大火に見舞われたが、将軍が納めた日本最古といわれる「鉄鍬形」、両界曼陀羅図や千手観音など9つの重要文化財が保存されている。北信濃の三大霊場の一つで、信濃三十三番札所の十六番。》

子供の頃は、4月にお観音さんのお祭り?があって、5月には、境内、周囲のぼたん畑に沢山のボタンが咲いた。今では小さい株のぼたんが咲くだけになってしまって、あの頃のように大きな株のぼたんが咲く事はないのだろう。
清水寺は、久しぶりだ。子どもたちが小さい頃は、正月の初詣に良く出かけた。真冬の雪道を観音堂まで歩いて登ったりもしたけれど、今頃の時期に訪れた記憶はない。ふと思いついて、実家への途中なので寄ってみただけだったが、思いがけない美しい光景を目にする事が出来た。

この参道を15分ほど登ると、清水の舞台のような観音堂が建っている。朱塗りの柱が目に鮮やかだ。この舞台に立っても残念ながら、参道脇の高く伸びた杉林で視界は遮られたけれど、もみじ、裏山のカラマツの黄葉とスギの緑が成すコントラストはすばらしかった。

清水寺から実家へは、10分くらいでたどり着く。南向きで日当たりがいい場所だが、冬は日差しが山の向こうへ落ちるのが早い。15時を過ぎるとぐっと気温が落ちてくる。

実家の辺りは標高540mくらい。ここいらまで来ると河岸段丘の形が顕著に見れる。保科川と県道が通る一番低い場所から段丘の上部までは40mほどの高低差。
両側から山がせり出してきて、扇状地の要に当たる場所なので、左右の河岸段丘は狭くなり、500mくらいだ。それから奥は、保科温泉の台地から二股に分かれ菅平方面の保科川と古い温泉がある高岡沢の高岡川を遡ることになる。

この辺は、標高が700mくらいから1500mくらいの山が連なっているが、陽が出てくると陽射しが頂上付近から徐々に下へ降りてくる。しばらくすると、この時期は夜露が暖められるのか霧が湧き上がってくる。あまり濃い霧ではなく、向こうを透かせる程度に薄っすらと漂うようで、霧というより靄のようだ。それも、次第に陽が高くなり、この谷全体が陽射しに照らされると、どこへ行ってしまうのか霧は消えてしまう。

この地域は、山に囲まれているために日の出が遅い。
日の出と言うより日当たり始まるのが遅い、と言う方が正しい。

西の空に聳える北アルプスの山々には6時30分くらいには陽が当たり赤く染まり始めるが、その頃、この辺りは上空を太陽光線が通過しているだけなので、日陰状態だ。7時30分を過ぎると、ようやく紅葉した山を照らし始める。

サルたちは、柿を食べた後だったようで、木の枝で思い思いの格好でくつろいでいた??

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2008 Nov 20. tama
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