小さい秋見つけた もう12月、冬ですが・・・
カエデの紅葉をよく見ると、枝先の一部だけが真っ赤に染まり、その幹に近いほうにいくと黄色、オレンジと変わり、まだ緑の部分も残していた。この景色を独り占めするには美しすぎた。それらの色は、見ているその瞬間だけのもので、過去においても将来においても再現できないと思われるような色あいだった。赤い色鮮やかな紅葉は、冷え込みの後、太陽の光が充分に当たって、はじめて鮮やかになると言われるが、まさにそれに当たる部分なのだろう。見た、そのときの陽射しとのタイミングが良かったのだろう。
紅葉は、気温の変化とともに、樹木がそれを感じ取り、冬支度の一つのプロセスとして見せてくれるのだ。ある気温を境に、葉っぱと枝の間でやり取りしている水分、栄養の行き来きを止めてしまい、その葉っぱに残った栄養分と太陽光が赤い色素をつくりだす。木々が冬に向かって身を守るために、葉っぱを落としていく、こんなメカニズムは、やはり、天気や気温など自然の力が大きく左右していることを感じる。
透かして見るのも綺麗だ。
陽射しに透すと黄金色に輝くカエデの葉っぱ。燃える様にさえ見えるオレンジ、赤。緑色を残す葉っぱも太陽光には負けてしまい、かすかに緑らしく見えるが黄色く光り輝いていた。
太陽光ばかりでなく、単に空をバックに透かして見ても、それは太陽光によって作られた綺麗さと違った、カエデ本来の色を表わした透かし絵がそこには見えた。この紅、オレンジ色、緑色のグラデーションは、太陽光による派手な鮮やかさではなく、普通の心躍る紅葉だ。
公園の入り口にある大きな藤棚は、すっかり枯れて、その隣にある大きな噴水池周辺も、今は人影はまばらだ。でも、ここを通るたびに、今夏の暑さをこの噴水池で遊びまわっている子供たちと、藤棚の日陰で遊ぶ子供たちを見守っている親たちが、大騒ぎをしていたにぎやかな日々を思い出す。
更に歩き回っていると、やっぱりこれも陽射しのいたずらなのだが、ハッとする光景が目に入ってきた。
ちょうど居た場所が比較的葉が付いた木立の間で、少しくらい感じのところで、そこから先を見たときに、向こう側にすごく明るい葉っぱが見えていた。この葉はそれほど薄い葉ではなかったが葉脈が透けて見えるくらいだった。
陽射しは、夏の活発に活動している時期には光など透かさなかったものが、今くらいの活動が停止し始める頃になると透かしてしまうようだ。
もう12月、季節は冬のはずだが、この辺りは秋の雰囲気だ。こんな感覚は自分だけなんだろうか。小さい秋 見つけた というと ♪だれかさんが だれかさんが だれかさんが 見つけた 小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた・・・・ ♪ という歌を口ずさんでしまうけれど、まさに今頃、枯れ葉が舞う頃に歩いてみると、ただ紅葉 黄葉というだけでなく、ハッとするような思いがけないことを見つけることが出来る。 それこそ、小さい秋 見〜つけた・・・・という感じだ。
こういう小さな発見は、童心に返ったり、日々何気なく見ていることが、すごく大事なことに思えたりする。そして、何か別世界へでも入っていくような気分になって、ウキウキしてしまう。他人が見たら、あの人??なんて思っているかもしれない。
まあ、何にしろ自分が興味の無いことを他人がやっていれば、冷ややかな目で見てしまうのは世の常、いろいろ自然観察などをしている人は、尚のこと他人から見れば、変な人?なんていわれるだろうが、そんなことを気にせず、小さな世界を見つけたいものだ。
♪だれかさんが だれかさんが だれかさんが 見つけた 小さい秋 小さい秋 小さい秋 見つけた・・・・ ♪・・・・と
周囲に生えている大きな樹木は、その頃は緑の葉っぱに覆われていて気づかなかったが、今はその黒くて太い幹をさらけ出している。
公園へ入ってからすぐのところに、黄色が陽射しにまぶしく光っている黄葉を見つけた。その場がパ〜アッと明るくなっているような鮮やかさだった。
目に見えたのとは、ずいぶんかけ離れた少しハレーション気味に写った写真になってしまったけれど、雰囲気は出ていると思う。