森の中の水辺に行くと、鏡写しになった木立が面白い。実際の木立や空よりも水面に映し出された風景のほうが、原色を映しているような気がする。これも直接光の反射は人間の目に強すぎてハレーションを起こしているのだろう。その点では、自然の方が忠実に再現しているような感じがする。
今年の晩秋は、駆け足のように過ぎ去ろうとしているけれど、この日のここには、そんな慌しさはなく小春日和の晩秋が、ゆっくりゆっくり時を刻んでいた。
森の周りの藪も少しずつ枯れかかって、色を失っていく。枯れ色という言葉で一括りできてしまいそうな風景に変わっていく。
そんな中に、ポツンとアザミが咲いていた。
タカアザミだろうか、頭花が長柄の先にぶら下がって咲いていた。よく見ると茎がヘニャヘニャと曲がっているし、新芽のようなものも見える。
もしかすると今までは、周りの元気のいい草花に押さえられて伸び伸び出来なかったのか、それとも、この秋の長雨で水没していたのが、周囲の草が枯れてしまい、今ごろ元気になったアザミだけが咲いているのだろうか。
晩秋の公園は、小春日和だ。森の中を歩き回り色々な森の移り変わりを見てきた。
こんな日は、私のような人間ばかりでなく、かわいい女の子を連れた若いお母さんの姿もあちこちで見かける。私も娘が小さい頃、この公園を知っていたら、たぶん連れてきて、森の中を駆けずり回りながら自由に遊ばせただろう・・・、なんて・・・ずいぶん昔の記憶にたどり着く。
歩いていると、ベンチに座った母娘のところからキラキラ光るものが立ち上っている。太陽に向かって逆光の位置関係なので何かよくわからないが、太陽光に透かして虹色に輝いて見える。
何遍も何遍もキラキラ揺らぎながら、ゆるい風に流されていく。近くに行ってみるとシャボン玉だ。それこそ、また何十年の前の記憶へシャボン玉の揺らぎのようにたどり着く。こんなにも綺麗だっただろうか。
森から出て、外から森を眺めてみた。青空の下、黄色く色づき始めた銀杏の大木が数本並び、丸く刈り込まれた木々がポツンポツンと生えている風景は、何年か前に行ったメキシコの土漠に生える植物を連想させる。まったくこんな青々した風景ではなく、乾燥した砂埃っぽい景色なのだけれど、何故なんだろう。
水辺では、葦がすっかり枯れているのに対し、背後の森はまだ緑をたくさん残している。水の中に生えるのだから、もっと瑞々しくも良いのではないか、なんて考えてみるが自然というものは、それぞれの植生とか生態によって人間の考えなど及ばぬ事が多々あるのだろう。
夏の間は、本当に木の葉の間の透き間を透して射し込んでくる木漏れ日だった森も、徐々にその光を透す透き間が大きくなって、今はかなり明るい森になったきたが、やがては丸裸の黒々した木立になっていく。
公園を歩き始めるた。メタセコイアの林は色合いにずいぶん差がある。ある木は茶色く枯れたようになっているかと思えば、まったく緑の葉をつけているものがある。地面の草もそうだ。春の新芽のようにさえ見える青々したところがあったりする。まだ朝が早く露で濡れていたこともあるだろうが、小春日和が続いたこともあるだろう。
駆け足で通り過ぎていく晩秋の風景
今の時季、日の出も遅くなってこの日は午前6時18分だった。東の空が白んできて徐々に赤さを増してくる。太陽が上がりきると、今度は、西に遠望できるすっかり雪化粧した富士山の、その白い富士に朝陽があたりはじめ、朱に染まっていく。冷え込んだ朝、この朱に染まっていく姿を見ていると暖かさが伝わってくる。
家の周囲を見回すと木々がずいぶん色づいてきた。ベランダから見る近くの公園のこんもりした森も黄色っぽくなってきたし、春はサクラの花でにぎわった桜並木は赤く染まってきた。
街路樹のケヤキの葉も落ち始めた。これからは都心でも色づく木々が目につくようになるだろう。
暦の上では冬になったが、風景としてはまだまだ秋だ。
こうして、秋は暦に追われるように足早に過ぎていく。 もう11月も後半、今年ももうじき終わる。