一ノ倉沢

tama

中央カンテの一日

午前3時少し前、電車の中はざわつき始めていた。前夜、上野を発った鈍行列車が、そろそろ土合駅に着く頃だ。僕たちもそうだった。
1974年10月5日、浅山君と2人で谷川岳一ノ倉沢烏帽子奥壁中央カンテルートを登攀に行った日のことだ。

電車から降りるとトンネル内の長い階段を上がる。どのくらいあるのだろう。何百段という階段、これをいかに速く駆け上がって改札を出るかによってその日の登攀が決まる。と いって冗談をとばしあったものだ。
改札を出て、まだ明けきらぬ一ノ倉沢への旧道を急ぐ。早く取り付きたいという逸る気持ちが先にたつ。旧道を約1時間、その間にも山の話、仕事の話、いろいろ語り合いながらの道だった。その話しのなかでも、浅山君の「来年は、滝沢スラブを登りたいな」 といった言葉が今でも記憶に新しく残っている。

4時頃、一ノ倉沢出合いに着くと、衝立岩方向の霧の中にヘッドランプの光がかすかに見え隠れしていた。「やってるな」 つぶやくように、彼の口から出たのが印象的だった。「朝飯でも食おうか」 と どちらからともなく言って、上野で買ってきた駅弁を口に押し込んだ。

あまりいい天気ではない。2人で 「どうしようか」 といってみたが、今日は人もあまり多くなさそうだから一眠りしてから行くことにした。
6時になって、ツェルトから顔をだしてみるが、やはりあまりいい天気とはいえない。一ノ倉沢は、霧につつまれたまま、時折衝立岩が見え隠れしている。また 「どうしようか」 「もう少し様子をみてから行こうか」 という会話をしながら、時々ツェルトから顔を出して外の様子を見ていた。

6時半頃になって、ようやく霧が晴れてきはじめたので 「行こう」 ということになり、一ノ倉沢を登り始めた。先週は、沢の左側を行ったから今日は、右側を行くことにした。
約1時間、中央稜テールリッジをまわりこんだ所にある、今日の登攀する取り付き点に着いた。天候は良くも悪くもなく、まあまあだ。そこには、すでに先着パーティがいた。先を越されたなと思い、聞いてみると彼らは、隣の凹状岩壁ルートへ行くというので安心した。その日、奥壁に登ろうとして来ていたパーティは、我々とその2組だけだった。
その先行パーティは、登攀前のおやつに、パイナップルのドライフルーツを食べていた。彼らは、あまりにも 「うまい、うまい」 を連発していたので、2人して、うらやましそうに見ていたものだ。そんな変な印象が残っている。

いよいよ登攀開始だ。午前8時。1ピッチ目。僕がビレーをして浅山君がトップでハングぎみの下を少しトラバースして、そこから直上する。次のピッチは、凹状岩壁と中央カンテの分岐まで、スラブ状の濡れたところを登るのだ。すると、先ほどの凹状岩壁パーティは、僕たちが中央カンテの方へ登って行くのを見て 「はやく登ろうや、中央カンテから石でも落とされたら、たまらねぇ」 なんて話してるのが聞こえてきた。きっと僕のぎこちない登り方を見て思ったのだろう。

その次のピッチは、僕がトップで、カンテまで濡れたバンドをトラバースぎみに左上する。ここは高度感がある。さっきの取り付き点の下の烏帽子スラブが、かなり下の方まで見える。足の直ぐ下が見えなく、その下が見えるというのは本当に高度感がある。
そして、ついに核心部の中央カンテに入る。話しには聞いていたが、やはり浮石が多い。ホールドとする岩も、スタンスとして足を置く岩もよく確認してからでないと危険だ。しかし、この核心部はよく分からないうちに過ぎていて 「あれが核心部だったのか」 と後になって2人で納得したというのが事実だった。それというのも、ホールド、スタンスが大きく、豊富で聞いていた情報やルート図より簡単に通過できてしまったからだ。

カンテをぬけて、ルート図では人工登攀の表示があるチム二ーを登る。ここは2人で 「アブミは使わないで行こう」 と決めて、浅山君がトップで、難無くチム二ーを切り抜けた。その後は、変形チムニールートと合してフェースを登る。この頃になっても天気は良くなってこない。かえって悪くなってきたようで、霧が時折一ノ倉沢を覆ってしまい、下を見ても足下が無いような錯覚に陥り緊張する。

フェースを快調に登っていくと、ついに雨が落ちてきた。そんなに大粒ではないけれど、岩が次第に濡れてきた。 「やばくなってきたな」 そんな言葉を口にしながらも直上を続けていくと、ルートファインディングを誤っていたようだった。もうそろそろ人工登攀の場所に出てもいい頃だと思っているのにまだ出ない。 「あれ!間違えたかな?」 そのとおりで、ルートからかなり左へそれていた。「これを直上じゃあ、人工でもちょっと行かないな〜」「もっと右へトラバースしなくちゃ だめだな」そんな会話をしながら、トラバースしてルートに戻った。

そうこうしているうちに、雨がかなり降ってきて、すっかり岩を濡らしてしまった。
さらに続く上のチム二ー、草つきは難無く登り、最後の凹角となった。大きくがっちりした岩が凹角となって烏帽子岩に向かって突き上げている。浅山君がトップで登っていって姿が見えなくなり、しばらくして 「いいぞ〜 上がって来〜い」 というコールが聞こえた。
僕も、雨で岩がかなり濡れてきたので気を引き締めて登り始めた。がっちりした凹角内は、大きなホールド、スタンスもしっかり安定しているが滑りやすくなっている。快調に登ってきて、やがて最後の凹角をぬける所へきて、微妙なバランスで抜けようとした瞬間、左足がスリップした。そして10メートル前後、空を飛びフワ〜という感じで宙吊り状態、そしてどうにか岩にしがみついた。

何か夢み心地といった感じで、これまでのことが、肉親や友達などの顔が走馬灯のように頭を通り過ぎ去った。 上から 「ど〜うした〜」 という、浅山君の声が聞こえ、ハッとして今の状況を理解した。
そして、一呼吸。気を取り直し、もう一度登った。この時のことを、本当にどうなってしまうのかと考えたらゾーッとする。

浅山君がいる確保地点へ行ってみると彼は 「おお、あぶなかった!着地しなかったら 2人でいっちゃったよ」 といって、打ち込んであったビレーピンを見た。これのおかげで助かったんだ!
それでも、また2人が顔を見れたので、手をにぎり合って喜んだ。そして、ザイルを解き、ひとつだけあったミカンを分け合って食べながら、いつしか雨のあがった一ノ倉沢を見渡した。
時計は、11時30分を少しまわったところだった。

登攀を終わって、一ノ倉岳、中芝新道を経て一ノ倉沢出合いへもどり、見上げる一ノ倉沢は、一面霧が覆い、さっき登った烏帽子奥壁辺りはまったく影も形も無いようだった。ただ衝立岩だけが墨絵のように浮き出て見えていた。
そして、帰りの電車では今日の登攀の無事をビールで乾杯し、また次の山行を語り合った。


        この山行のザイルパートナーだった
        浅山君は、翌年3月の白馬岳主稜で
        雪崩に遭い他界した。冥福を祈る。

tama

20代、あの頃は、ほとんど毎週のように山へ出かけていた。
社会人山岳会へ入って。そんなに先鋭的な会ではなかったが、ロッククライミングを中心としたオールラウンドの山行を行っていた。
当時、同年代会員が多く、ちょっと誘って、次はどこどこの山へ行こうと、話しがまとまっては、2〜3人のパーティで出かけていった。
そんなある年の10月5日、谷川岳山行での出来事を綴った一文だ。

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Nature of the four seasons/四季の自然

2003 Oct.7 tama
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